南朝元中九年(壬申・北朝明徳三年)
 
春正月四日
将軍義満が山名旧領を諸大名に分け与えた。山城を畠山基国に、丹波を細川頼元に、丹後を一色満範に、美作を赤松義則に、和泉・紀伊を大内義弘に、出雲・隠岐を佐々木高詮(高範とも)に、但馬を山名時熈に、伯耆を山名氏幸に、また若狭国今富庄を一色詮範らに与えた。
山名満幸と上郷三河入道通清が出雲で佐々木高詮に降参し、塩冶駿河守満清は富田城において自害した。
山名氏清の謀叛は関東にもその報が届き、足利氏満は援軍として京都に出陣した(佐々木近江入道宿所)。

正月七日
去年の十二月晦日に氏清が討たれた旨飛脚が到来したので、氏満は鎌倉に帰った。また、出羽陸奥両国の国司職を氏満に与えるとか風聞がある。

二月十三日
大内義弘らを紀州に派遣して山名義理を攻めさせた。まず和泉の雨山城・土丸城を攻め落とした。

二月十八日
山名満幸が出家した。

二月廿五日
山名義理は藤代城を去って由良に逃げこんだ。

二月廿六日
山名氏冬が降参した。

二月廿八日
義理父子が出家し(義理は五十六歳法名を宗弘、子息は二人、氏親は法名を常勝、時理は義清と号した)、伊勢に去った。

三月二日
細川頼之(細川武蔵入道常久)が卒した(六十四歳、永泰院桂岩と謚した。その家臣三島入道常頓が殉死した)。
細川頼元が将軍に命ぜられて京都内野で万部経を始めた(戦死した将兵を弔うためである)。

六月七日
後亀山天皇は刑部少輔顕連に命じて紀伊・南有本庄を紀伊国造に与えた。
氏清の残党が多数千劒破城に籠って畠山基国と合戦したが敗走した。

十月三日
南禅寺の湯屋小門が炎上した。

十月
大内義弘が事を運んで南北の和睦が調った(義弘の父祖はみな宮方の忠臣であった。そのため南朝の二条冬実(冷泉相国入道)と吉田宗房に、南北両朝の和を請い以前のように持明院統と大覚寺統とが交互に世を治めるようにしたい、まず御合体があってその際に三種の神器を北朝に渡されて、そして南朝の太子を皇太子にお立てする、と何度も使いしたそうである。この和議は先年にも申し入れがあったのだが、南朝の君臣とも聞き入れず、しかし今は南朝軍が衰微して力がなくなったので合体することになったのである。十月十五日に南北御合体があるとか)。

閏十月二日
後亀山天皇と南朝皇太子が上洛し、大覚寺御所に入られた(小倉殿また嵯峨殿と号す)。諸臣もまたお仕えしている。

閏十月三日
三種の神器が北朝の御所に入った。後亀山天皇を太上天皇と尊号し、太子寛成親王を東宮に立て、吉野の領地は以前のように上皇が知行する(吉野十津川)。後亀山上皇が出家された(法諱は金剛以)。伊勢国司北畠顕泰の所領は以前のように安堵(大和宇陀郡伊賀名張郡伊勢数郡志摩英虞郡である)。

十一月
北畠顕泰を中務卿に任じまた治下諸郡の士卒の監察を命じた。新しく領地を与え、また元弘以来の勅宣や南朝歴代の勅宣に基づいた旧領も知行させるとか。ただし一族の木造俊通は北朝を奉じ、また関一党は将軍配下となるとか聞く。

十一月晦日
崇光院が出家された(五十九歳、法諱は勝円心)。

十二月
足利義満が左大臣に還任した。
朝鮮国より使者が来て国交を求めたので義満はこれを許した。


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