永享四年(壬子)
 

一条兼良が摂政となった(後成恩寺と号す。並ぶ者のない博学である)。

二月
伏見殿に親王宣下があった(貞常親王、八歳)。

三月四日
義教は東山で花見。

秋七月廿五日
義教は内大臣に任ぜられた。

八月廿八日
左大臣に任ぜられた。

同廿八日
赤松満祐を召して留め置いた。義教は、近習女房三人に落ち度があって死罪を申し付けたがその中に満祐の妹がいて、満祐はこれを恨んで上杉禅秀の残党などの軍兵を集めているとの讒言があったためで、満祐は播磨に逃げ帰った。

八月
義教は明国に使者を派遣した。

九月十日
富士山遊覧のために駿河に下向。

同十七日
駿河鬼岩寺に到着した。

同十八日
今川範政館に迎えられ歌会があった。飛鳥井雅世・三条実雅・尭孝法印が付き従って下向していた。

廿一日
帰京。

冬十一月廿四日
京都の軍勢が大和に発向して越智を攻めた。

十二月九日
義教は殿上・院別当・奨学淳和両院別当・源氏長者に補され牛車宣旨を蒙った。

十二月十九日
赤松攻撃、赤松の配下数百人が死んだ。満祐は降参して再三にわたって陳謝したので今回のことは許された。満祐は上洛した。


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