永享八年(丙辰)
 
春正月二日
義成が誕生した(義教二男、母は義勝と同じ)。


旱魃。

六月
遣明使が帰国した。

大仏を新造した。

遊佐兵庫助(畠山の河内守護代)を大将として大和・越智伊予守を攻めさせた(越智は南帝に味方して旧南朝軍を集めて高鳥城に籠っていた。城は高い山にあってなかなか陥とせず、香久山・橘寺・岡寺からこれを攻めた)。

六月廿二日
九州大平賀儀礼があった。

秋九月二日
明国に使者を派遣。

冬十一月廿九日
八坂塔・雲居寺・法観寺などが炎上した。

信濃国で小笠原大膳大夫と村上中務大輔が合戦に及び、村上が持氏に加勢を求めてきたので、持氏は桃井左衛門佐・佐那波上総介・高山修理亮に命じて出兵しようとした。しかし上杉憲実が諫言した。曰く小笠原は京都の御家人であって鎌倉公方が討伐することはできないのでおやめください、と。持氏は不承知であったが出兵を取りやめた。この一件より持氏と憲実はうまくいかなくなった。

九月廿九日
斯波治部大輔義健が落馬した。

同三十日
斯波義健が死んだ。まだ子どもの千代徳、大野修理大夫義敏の子に家督を継がせた。

冬十二月廿五日
鎌倉大町がことごとく炎上した。


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