□ 享徳三年(甲戌) |
---|
春 伊勢の子・良子はまだ十歳だったが妊娠して子を産んだ。 二月 義政は伊勢神宮の法楽のために和歌を百首詠んだ。 夏四月 畠山政長と義就が家督を争った。管領は徳本であったが子どもがなく、舎弟持富の子の政長を猶子として家督に立てようとした。後に義就(はじめ義夏と名乗った)が生まれ、徳本は実子を家督にしようと思うようになった。このために兄弟がしばしば争うようになり、ついに政長は徳本の館を出て自分は細川勝元の勝元の館に赴き家来は山名持豊の館に入らせた。 秋七月一日 鷹司房平が関白となった(鷹司殿、後西光院と号す)。 七月十二日 義政に姫君が生まれた。母は造宮使の女である。 八月上旬 畠山徳本の家人は義就より離反しみな山名家に入り政長に従った(政長は廉直であったが義就は兇暴であった)。 同廿一日 洛中が騒々しくなった。山名相模守教之と細川兵部少輔勝久が兵を率いて室町御所を警固した(これが天下大乱の始まりである)。勝元は来なかった。その夜、畠山徳本は屋敷に火を放って伯父満則の館に逃げこんだ。義就は山名相模守教之の館に来たが教之は入れてくれない。義就は遊佐河内守国助の館に入った。 同廿二日 夜、遊佐国助の館に放火して義就と遊佐は京都を出て河内に落ちていった。 同廿八日 徳本は建仁寺西来院に蟄居し政長に家督を継がせ、勝元は政長を援助した(徳本一族の西方という者が「政長ではなく義就を家督にするべきです」と再三にわたって諌めたのだが、徳本はその言を聞かず京都を出てしまった。そこで西方の一族は徳本の前にやって来て自害してしまった)。 冬十月 明国から返書がきた。 十一月二日 義政は御所に諸大名の軍勢を招集し、山名宗全が上意に背いたので討伐するようにと命じたので洛中が騒然となった。管領勝元が何度も義政を宥め、宗全も告文を義政に差し出して謝罪したので、罪は許された。しかし宗全は京都を去って但馬国で閑居することになり、その子の伊予守が代官となって京都に留まった。 十一月 宗全が義政の怒りを買ったので、細川讃岐守成之が赤松彦五郎則尚に旧領を与えることの許しを請い、これが聞き入れられて則尚は播磨に下向した。 十二月十日 大地震。 同十二月廿七日 酉の刻、成氏が結城に命じて上杉右京亮憲忠を西御門で殺させた(憲忠は二十二歳)。上杉と長尾は、成氏と合戦になり、これより関東大乱が始まったのであった。 |
← 1453 | 目次 | 1455 → |