享徳四年/康正元年(乙亥)
 
建仁寺の勧進船が朝鮮の永嵩禅密に入った。

春正月八日
義政に姫が生まれた。母は大館上総介常誉の娘である。

廿一日
成氏と上杉・長尾軍が武蔵立川原で合戦した。

同廿四日
上杉顕房が夜瀬で自害した。

同廿二日
武蔵府中で合戦、成氏が敗れた。

三月廿六日
徳本が死んだ。

夏四月
赤松祐之と則尚が山名持豊と播磨で合戦となり、赤松が敗れた。

同五月
備前甲島で赤松は自害した。宗全は義政に許されて上洛し勢威を揮い肩を並べる者はなかった。

六月五日
持通が再び関白となった。

六月十六日
義政は上杉房顕・定政に命じて鎌倉を攻めさせ、成氏は逃げ出してついに鎌倉へは戻れなかった。

七月廿七日
義政は八幡社へ参詣した。

七月廿五日
改元。

同十月廿七日
成氏と上杉が岡部原で合戦、上杉が勝った。

十一月
羽継で合戦、上杉が敗れた。

同十八日
分倍で合戦、上杉が勝った。

千葉・小山が成氏に味方して上野二宮で合戦、上杉は陣を武蔵の五十子に置いていた。

冬十二月
山門衆徒が荘園のことで嗷訴を敢行して日吉の神輿を担いで入洛してきた。細川勝元に命じてこれを防がせ、御教書を与えたので衆徒は叡山に帰っていった。

冬十二月晦日
夜大地震。


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