康正二年(丙子)
 
春正月廿八日
久我通尚公の邸宅が失火を出し、家代々に伝わる文書が焼けてしまった。

三月
関東では千葉・成氏と上杉の争いのために二分されていた。千葉惟胤と円城寺某は武蔵に逃走した。

六月
内裏の再建が完了した。

秋七月廿日
後花園天皇が内裏に遷った。

同廿五日
義政の拝賀。

彗星が西の空に現れた。


畠山政長が上意に背き義就が兵を率いて河内萱振に発向して政長と合戦した(両畠山の合戦はこれが始めである。義就も政長も元は同じ一族であり旗幟も同じ、敵味方の区別がつけにくいので政長は幟を作って掲げたのであった。これが日本の幟の起こりである)。

同六月廿六日
政長方の紀伊・大和・和泉・河内の浪人衆が三手に別れて河内に乱入し、義就方の誉田三河守・同遠江守が誉田社の前で防戦した。大和の片岡某(政長方)が討死、平石五郎・小倉民部丞・誉田弥五郎(義就方)も討死。また遊佐国助は道明寺河原で合戦したが、遊佐弥十郎は政長軍に討ち取られ、国助は誉田社に入って一緒になって防戦した。義就は本折七郎・遊佐中務丞に加勢を命じたが本折は討死してしまった。政長は攻めあぐねていたところへ、大和の住人・布施と越智、また畠山播磨守などが義就の援軍に来た。このときに義政の命によって義就と政長は和睦し、ともに在京することになった。

八月廿七日
義政は右大将を兼ねた(二十一歳)。

冬十二月十九日
上杉(中務大輔憲顕・治部少輔教朝)が丹波より東国に下向した。禅秀の子である。


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