□ 長禄二年(戊寅) |
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春正月廿七日 義政に姫が生まれた。母は赤松伊豆守貞村の妹で宮内卿局という人ある。 正月廿九日 二つの太陽が現れた。 閏正月二日 満月。 二月廿三日 太秦木島明神が祟りをなしたので正一位に叙せられた。 三月 義政は石清水に参詣した。 六月 南帝が十津川より吉野に遷ってきたので幕府軍が吉野を攻め、南帝は傷を負われて十津川にお戻りになり高福寺にお入りになったがそこで崩御された(高福院と追号された。後醍醐天皇よりこの方に至るまで南朝四代、ついに亡んでしまった)。 赤松満祐の家人に石見太郎という者がおり、三条内大臣実量に仕えていた。赤松家の絶えたことを歎いて「赤松家の家祖円心様は将軍家のご祖先尊氏様と互いに起請文まで交わしておられた。感状もたくさんある。そのほかにも忠功に励んだことは数え切れないほどなのに」などと云う。三条実量はそれを見て憐れに思って「どうすれば嘉吉の大逆の罪を贖うことができるかのう」と云った。石見は「旧南朝勢を攻めて南帝を討ち、神璽を取り返してこれを献ずればいかがあいなりますでしょうか」と云う。実量はひそかに幕府にこれを知らせて義政の許しを得た。実量は石見に許しが出たことを告げると石見は喜び、赤松一族の間島・衣笠や家人の中村弾正と策を練った。そして中村以下赤松の家人であった浪人ども十余人で吉野に入り、南帝に仕えることを願い出ると南帝はこれをお許しになった。 六月廿七日 夜、中村弾正らは突然攻め入って南帝を討ち取り十津川に乱入した。旧南朝勢も起ち上がって中村・間島らを殺したが、赤松浪人どもは神璽を奪取して京都に帰ってきた。 七月廿五日 義政の内大臣任命の大饗があった(勝元の差配)。左大将は以前の通り。 八月十九日 歌会があった。 八月晦日 神璽が紫宸殿に渡御した(明徳の例による)。義政は赤松政則(五歳、諱の一字を与えた)を召して赤松家を赦免し加賀半国(元富樫入道安高の領地)を与えて再興を許した。山名持豊は赤松とは敵対しており、石見の所業を憎んで腹を立てていた。ひそかに家来をやって石見太郎を闇討ちさせてしまった。叢林の詩人・萬里が「忽運子房帷幄籌 官軍奪璽叫千秋 今朝再入吾王手 風不鳴條四百州」と云う詩を朝廷に献じて祝った。 満祐の子孫は絶えていたが、満祐の弟の義雅の子・性存法師は嘉吉の乱のときわずかに九歳であったが、建仁寺の天隠奄沢和尚がこれを憐れんで山中に匿って命を救ってやった。その後、性存は政則を生んだが死んでしまった。今年政則は五歳で二郎法師丸と名乗っていたが、元服して赤松二郎政則と名乗りをあげた。 九月二日 諸大名が神璽入洛の祝賀に出仕した。 同十一月十九日 赤松次郎法師が出仕した。 |
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