□ 永享八年、朱塗りの首 |
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永享八年二月十一日、京都より平井加賀守広利が将軍の命を受けて三千の兵を率いて三河・遠江に下ってきて、新田の残党を捜索した。この時、故右京亮政義の二男・萬徳丸政親が蔵人と名乗って三河の松平に隠れていたのを生捕り、梅〔前〕原肥前守に身柄を預けた。また桃井満昌も正行寺で捕らえて近江志賀の沢田八郎に預ける。兒玉貞政をも奥平でだまして捕らえ、布施因幡守に預けた。広利はこの三人を捕縛して京都に帰り室町の獄舎に入れた。 五月三日、三条河原で三人を斬ることが決定したが、平井は恩情のある者で、その頃幸いにも藤沢の遊行上人が京都におられた時だったので、自ら道場に行ってひそかに上人にお会いして申すには、 「なにとぞあの三人の生命を上人のおはからいでお助けください」 と云うことであった。 翌日、上人は弘阿弥を通じて将軍義教に言上して、 「三河で捕えられた三人の新田一族のことですが、近日お斬りになるとのこと。そのことについて古い前例では、同じ氏の朝敵の首は朱塗りにしてさらしたのだとか。その昔、頼朝卿の弟やその他の同じ氏の者の首が藤沢でさらされたときも朱塗りであったと伝え聞いております。ですのでその前例の通りになさいませ」 とおっしゃった。将軍はそれを聞いて、 「もっともである。朱で塗ってやれば首の肉もそう早くは腐るまいて」 と云い、広利に、 「三人の首を切って朱塗りにして獄門に梟けよ」 と命じた。広利は畏まって拝命したが、すぐ三人をひそかに獄より出して自分の宿所に連れて行き、後に賀茂静原の梅谷修理亮の家に匿い、一方で年恰好がよく似た罪人三人を殺してその首を朱に染めて獄門に梟けた。 その後、政親、桃井、兒玉はひそかに遊行上人の弟子となり、剃髪して時衆に交じって諸国回遊に出たのだった。 嘉吉元年、将軍義教が赤松満祐によって殺されたあとは追及の手もゆるんで、満昌は三河へ帰って大河内式部少輔と改名し、貞政も再び三河に来て作手に住まいし、奥平監物と名乗った。政親は政阿弥陀仏として上野国徳川の萬徳寺で仏道修行をしていたが、文正元年十月に亡くなったとか。 永享十一年、洞院大納言実熈公が三河に配流になって大河内にいた。嘉吉三年に京都に帰って内大臣に任じられたのだが、お帰りになるとき、松平太郎左衛門尉泰親は富裕であったので金銀を用立てて帰洛の途を華々しくして実熈に従って京都に行ったのであった。泰親の娘は実熈の妾で男子一人をなし、富永五郎実興と名乗っていた。三河富永の御所と云うのは実興のことである。三河山本の祖で、尾崎・山崎もこの子孫である(実熈公を東山左府と呼ぶ。従一位に叙せられ康正三年に出家、法名を元鏡という。博学多才の人であった)。 |
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