津島天王祭
 
尾張津島天王社の祭礼の法式は、船十一艘を飾り十一党の各家の家紋が付いた幕を張りめぐらせている。

この祭りが始まったいきさつであるが、同国佐屋村に台尻大隅守という剛の者がいた。この者は良王の仇敵であり討ち果たそうとの計略からであった。大隅守一族を召集して船を飾って津島に押して来させよとの天王の神託があったのだった。十一党の船十艘は津島にあったが大隅の船一艘は一会村より押し出してきた。合図を定めて大隅の船が渡ってくるのを十艘の船で待ち受けていた。

大隅はこの計りごとを知るよしもなく、一族を船一艘に乗せて祭りを見ていた。合図があって大隅が船を押し出させて津島の方へ来るのをみて、十艘の船も押し出した。前後より台尻の船を包囲して鬨の声をあげて大隅の船を撃沈した。その時にかの一族は残らず討たれて水に溺れて多くが死んだ。宇佐美、宇都宮、開田、野々村は陸上にいて水を泳いできた者らを討ち取った。そのためにこの四家では今に至るまで船を出さないのである。

大矢部主税助は台尻に味方していた者であったが、良王に内通して台尻の船の幕を取り払って船の中が見えるような支度をしたのであった。その後、大矢部は生命を助けられて褒美を賜って天王拝殿の番に加えられた。

後世に至るまでだんじり討と記念しようとの良王の命によって、毎年祭りが行われるのである。台尻を討ったのは十四日の夜であった。十一党の乗った船には一門一族以外の者の乗船は固く禁じられ、他家の者を乗せるときには四家七名字の装束を許して乗せたのである。これを主達衆と名づけた。

また、良王は自ら神主の家を継いで天王の境内に住まわれ、四家は奴野城を守って天王社を守護した。七名字は社家・社僧が昔から執行してきた神事祭典にも毎朝天王社に出仕して拭き掃除などに怠慢がないか監督する役人となった。宇佐美、宇都宮、開田、野々村は津島五ヶ村の町人・百姓・その他他国より参詣してくる武士を調べる役人であった。


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