大橋家伝
 
大橋家伝

その先祖は九州の守護・大橋肥後守平貞能である。貞能は平家滅亡の後、肥後国大橋というところに隠れ住んでいた。その後、宇都宮に仕えて常陸に赴き出家した。そして三河国に移り住み、そこを大橋といった。ついで尾張国熱田に隠れ住んだ。農家の娘二人を妾とし、各々二人の女子を生んだ。

そんな折に頼朝が貞能の行方を捜索させた。尾張国の原大夫高春が匿っていることが知れたので、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は自ら景季の陣に出頭して捕われた。景季は貞能を引っ立てて鎌倉に下りそのまま比企谷の土牢に入れた。

貞能の妻が肥後国で生んだ男子・一妙丸(後に貞経と名乗る)が父の行方を探して鎌倉にやって来た。鶴岡八幡宮に毎夜詣でて法華経を声高く読誦し、父の無事を祈ることが数ヶ月に及んだ。一妙丸の姿形がただならぬ人に見えたので、これをみる人々はみな不思議な思いであった。このことを頼朝卿の御台所がお聞きになって事情を調べ、頼朝卿にお話しになった。頼朝卿は一妙丸を連れて来させてその理由を聞いた。一妙丸は泣く泣く父のことを話した。これにより気の毒に思って貞能の生命を助けて所領安堵の下文を与えて九州に帰してやった。これが大友の元祖である。

源の一法師が貞能の家を継いだのである。貞能を尾張で匿っていた原大夫高春は千葉上総介広常の外甥であり薩摩守平忠度の外舅であるとか。

貞能の子・大橋太郎貞経の子孫は代々尾張・三河に居住した。貞能が尾張で儲けた四人の女子(二人の妾は同月同月に二人の女子を生んだ)を頼朝卿は鎌倉に呼んで一人を三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。また一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真の母である。この四人の女子が生まれた里を末永く記念しようと四女と名づけた。その後四人の女子の母を神としてお祀りしていた社を、後に取り違えて頼朝の宮と称したそうである。


← 【 20 】 | 目次 | 【 異1 】 →