別本一 浪合御所
 
別の本にこうある。自身は三河にお移りになり、吉良弾正左衛門尉正庸そのほか桃井義繁など忠義に篤い者が多々いたのでこの者どもをお頼みになって後、上野では、時機を待っている新田・世良田の一族に命じて再び挙兵し、落合におられた良王君と示し合わせて、宮方の残兵を集めて合戦しようと決定した。

そして嶋崎の城をご出立になって三河に赴かれた。三河からもお迎えに、久世、土屋の一族がやってきた。小笠原・知久が道中を警固して知久四郎祐超の館のお入りになった。その頃雷雨が激しく降ったのでここで三日ご滞在になった。そうして三河へ行こうとお発ちになったのだが、駒場村でまた雷雨があり、道路は大河のようになった。午後1時ごろより風雨はなおも激しくなって周囲は暗夜のようで左右もわからない。ようやく浪合山という小山の麓に建っていた小屋に馬を繋いで、夜の明けるのを待っておられた。

土地の者がそのお姿を見て「しばらくお疲れをお休めください」と大河原の南にささやかな御所を建ててそちらに移っていただいた。尹良公もお喜びになって、ひとまずここに身を隠して京都・三河の様子をうかがい、世間が静かであれば三河へ行こうではないか、と決定して、たとえここにご滞在になられても少しの油断もないように、と不動滝より一ノ瀬まで十四丁の間に大木を切り倒して乱杭を打ちこみ、防備とした。

尹良君も少しはご安心なされ、長生きと民の安穏を祈って大般若経写経を思い立たれて昼夜の別なく筆を握って写経された。知久四郎祐超はひとまず自分の館に帰って休息するがよいと仰せになられたので、ありがたくも自分の館に帰り、酒肴などをたびたび贈ってきてはご機嫌を伺った。

尹良親王はここに二年ほどおられ、大般若経二百六十六巻も書き上げられた。しかし運命というものからは逃れがたいのか、三月廿四日午前5時に、駒場次郎・飯田太郎が近隣の野武士どもを集めて御所の東北方より斬りこんできて、あちらこちらより矢を放ってくる。桃井入道道徴、世良田次郎義秋、羽川安芸守景庸、同安房守景国、一宮伊予守、酒井七郎忠貞、同六郎貞信、青山蔵人佐師重、熊谷弥三郎直近、大庭治部大夫景郷、本多武蔵守忠弘以下の者が防戦した。

しかし野武士どもは元々地理をよく知っていて、あちらに集まったりこちらより駆け出してきたりして水陸を走り畦岸に集まって散々に矢を放ってくる。味方は天難から逃れることができず運気はここに尽きて信濃の賊敵に襲われてしまったのだった。


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