別本二 浪合戦薨
 
小笠原七郎が駆けつけて、下野入道や政満と相談して、尹良君を麓の民家までお供して、小笠原はご自害をお勧めした。宮は残った人々を呼び寄せて、日ごろ忠義を尽くしてくれた者どものことは後の世まで忘れるはずはないと涙をお流しになった。また宮は政満を呼んで、

「そなたは下野国落合に行って、このありさまを良王に語り、再び新田・世良田など宮方の一族を結集して合戦せよ」

と仰せ付けられた。また使いを知久四郎入道祐超に遣わして、車の紋の御旗・錦の母衣を与えてその功労を賞賛したのであった。

宮がご自害なさるときに「思ひきや幾瀬の淵を遁れ来て此浪合にしつむへきとは」と辞世を詠まれ、その後に健気にもご自害なさった。入道をはじめ宇佐美・桐生・羽川・青山・世良田の従者ども五人、めいめいに自害して家に火をかけてすべてが灰になってしまったのは悲しいことであった。政満は御遺言を守ってこの災難の免れて上野国に帰ってきたのであった。

時は応永三十一年甲辰三月二十四日、場所は信濃浪合大河原であった。宮が腹を斬られたところを御所平と呼び、討死にした者の遺骸で、大将であった人を北の方の寺僧に頼んで葬送し、残りの人々を埋めてひとつの塚をこしらえ、これを千人塚と名づけた。法名石垣は信濃浪合の聖光寺にある。先の親王直筆の大般若経やその他の宝物をこの寺に納めた。のち聖光寺は荒廃して宝物などは尭翁院に移したとか。

 大龍寺殿一品尹良親王尊儀
  知真院浄誉義視大居士    羽川安芸守景庸
  大圓院長誉宗徹大居士     桃井入道宗綱
  照光院清岩智浄大居士  青山蔵人左中将師重
  依正院義伝道伴大居士    世良田三郎義秋
于時正長元戊申年

 竹尾氏寄示波合記一本、與世所伝不同、余亦蔵一本、皆不載、此一條為可疑也、写以存之、以備参考耳。 元恒識。


← 【 別2 】 | 目次 | 【 別4 】 →