巻第1−1  国家治乱附南朝来由の事
 
 わが国第八十三代土御門天皇の御時代、正治・建仁の頃より元弘年中に至るまで百三十年、北条氏は天下の権を執り行って、日本国中をその掌中に握ってゐた。それはなぜかといえば、右大将源頼朝卿が平家の一族を攻め滅ぼし、相模鎌倉に安住してより、北条遠江守時政が、外戚である威勢に乗じて謀略を用いて頼家・実朝を暗殺させ、これより武威を振るうようになったのである。その子武蔵守義時、その嫡子泰時、その孫武蔵守経時、その次は相模守時頼、最明寺道崇はこの人である。その子宝光寺時宗、その子は武蔵守貞時、最勝園寺崇演と号された。その子相模守高時入道して崇鑑、あい継いで天下の権を執り行った。この高時は、父祖より豹変して朝廷をないがしろにして、無実の諸士に罰を加え、民衆に臨時の課役をかけ、美女を集め酒にしたたかに酔い、猿楽・田楽・闘犬などの遊びにふけっていた。この時の聖主後醍醐天皇は、高時が暴悪をお怒りになって、足利尊氏・新田義貞・楠木正成・赤松入道円心(俗名次郎則村)・名和長年以下に勅命を下されて、北条一族を誅伐なさり、絶えて久しい公家一統の世となされたのであった。

 しかし両雄は必ず争う習性なれば、足利尊氏・新田義貞は互いにその勲功を争い不和となったのである。そして尊氏兄弟の悪逆が露顕したので、新田義貞は足利征伐の勅諚をこうむって、合戦数十回、尊氏は利なくて西国に落ちて行ったけれども、また大軍を集めて西より攻め上ってきたのだった。このとき官軍は敗れて比叡山に上った。しかし天皇は勝利の難しいことをお悟りになって、京都にお戻りになったところ、尊氏はいきなり監禁し申し上げたのである。義貞の方は天皇に見放されたと思って力なく北国に落ちて行った。その後、天皇は都を脱出なさって南方にひそかにお行きになり、大和国吉野山に皇居をお据えになって、南朝と称されたのである。これより後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇と続いて四代明徳年中に至って五十余年に及んだ。

 さて、後醍醐天皇にお仕え申し上げた武士は数多くあったが、楠木氏四代は、義を金石よりも重んじていた。誰がこれに匹敵するであろうか。古今に稀な忠臣である。なかでも河内判官正成は、智仁勇の三つの徳を兼ね備えて、守城野戦の功績、奇策妙術は数え切れない。最もはかり知れない良将なのである。


← 序文 | 目次 | 巻1-2 →