巻第1−3 南木氏石碑之銘
 
 楠木河内判官正成は、智勇古今に秀で、臨機応変に城を守り、謀略をじっくりと練って、勝利を確実にする人であった。彼一代の奇策謀略はすべて言い尽くすことができない。後醍醐天皇にひとたび頼みにされてからは、忠臣の美名を揚げたのであった。惜しいかな、足利尊氏が西海に数万の兵船を浮かべて摂津兵庫に着岸した日、聖運が開かれなかったことを悟って、ついにかの地に自殺したのである。今に至って天下の人は、きこり牧童までもがその忠貞に感じ入り、その神策をほめたたえている。

 そこで最近、元禄四年辛未の年、水戸光圀公は楠木氏の徳に感じ入って、その旧跡が後の世になれば廃れてしまうかもしれないことを心配して、兵庫の民家のはずれに正成公の墳墓を再興して石碑を建てたのであった。土台は摂津の御影石で高さ五尺辺一丈の四角形、中段も御影石高さ二尺辺五尺四寸である。その上に洛東産出の白川石の、長さ三尺高さ六寸の亀趺石を載せている。その上の石塔は和泉石で、高さ三尺八寸横一尺六寸腹一尺五寸である。土台の下には石棺が埋められていて、その中には亘り一尺二寸の円鏡を納めたのであった。その鏡の裏の銘には「楠正成霊、源光圀造立」とあり、碑石の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻まれて、その裏に碑の銘がある。曰く、

忠孝著天下、日月麗乎天、天地無日月、則晦蒙否塞。人心廃忠孝、則乱賊相尋、乾坤反覆。余聞楠公諱正成者、忠勇節烈、国士無双、蒐其行事、不可概見。大抵公之用兵、審強弱之勢於機先、決成敗之機於呼吸、知人善任、体士推誠。是以謀無不中、而戦無不克。誓心天地、金石不渝、不為利回、不為害牀。故能興復王室、還於旧都。諺云、前門拒狼、後門進虎。廟謨不蔵、元兇接踵、構殺国儲、傾移鍾虞、功垂成而震主、策雖善而弗庸、自古未有元帥妬前、庸臣専断、而大将能立功於外者。卒之以身許国之死靡他。観其臨終訓子、従容就義、託孤寄命、言不及私。自非精忠貫日、能如是整而暇乎。父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門。盛矣哉至今王公大人、以及里巷之士、交口而誦説之不衰。其必有大過人者、惜乎載筆者、無所考信、不能発揚其盛美大徳耳。
 右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛、明徴士舜水朱之瑜字魯與之所撰、
 勒代碑文以垂不朽



 今すでに三百余年の年月が経ったけれども、水戸光圀公は、南木氏の智仁勇の三つの徳を褒めて、その忠義の戦死に感じ入って、末代まで語り継ぐべき将士として、忠勇の道の手本としたのである。光圀公の徳は大きいのである。


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