巻第1−4 橘氏由緒附菊水紋の事
 
 河陽侯橘朝臣正成は、神武以来はかり知れない良将であって、勅命を奉じて、ひとたび天下一統の大功を立ててからは、続いて四代、その美名を汚さず、民衆と接するには仁をもって行い、天皇にお使えするには忠をもってこれを行った。

 その祖先を探れば、第三十一代敏達天皇の玄孫を葛城王と申し上げる。しかし元明天皇の御時代、和銅元年十一月二十五日、天皇が群臣をお集めになって遊宴なさった時に、葛城王に盃に浮かべた橘をお与えになり、

  「これをもってそちの姓とせよ

と勅命を下されたのであった。その後、聖武天皇の御時代、天平七年十月一日、従三位葛城王・舎弟佐為王に橘宿禰が与えられた。葛城王は、その日に諸兄と名を改めなさって、同年右大臣に任ぜられ、同十五年五月左大臣に補任され、同二十一年四月正一位に叙せられたのであった。

 しかし聖武天皇の御子孝謙天皇の御時代、天平勝宝二年正月二十七日、諸兄公に逆心の企てがあると讒言する者があり、天皇はその讒言をお許しにならずに真実とはお思いにならなかったけれども、諸兄公はこのときより官職を辞したのであった。そして公は山城国井手の里に別宅を営んで常にここにお住まいになったので井手左大臣と称せられた。その庭園の跡が今になっても残っているとか。

 生まれつき菊が大いにお好きで、この井手の玉川は菊の名所であって、花の盛りのころは岸の菊を水面に映し、彩りも鮮やかな波が打ち寄せて、他に類のない眺めであったのをこよなく愛されて、菊を眺め蛙のなく声に心を澄まして歌を詠む題材となされたのであった。ここはまた、井手の蛙といって、そのなく声はよそに優れて清らかなのである。菊も、高い堤のあたりには今もわずかに残っている。そこで諸兄公は、その菊好きのあまり、玉川に菊の咲いているところを直衣に刺繍にして、常にこれを着ておられた。その子孫もこれにならって、水に菊を描いて家紋としたのである。それを後代の人が間違って菊水であると思ったのを、末孫もともに間違って菊水としたのである。

 その後、第六十一代朱雀天皇の御時代、天慶年間に藤原純友が平将門と心を合わせて反逆を企てて、東西に反乱が起こった時に、純友征伐のために小野好古・藤原慶幸・大蔵春実以下数万の官軍が勅命によって西国に発向し、大いに純友と戦った。このとき諸兄公十代の後胤、橘少将経氏も勅命を奉じて大いに戦功があったので、その褒美として河内・備中両国をいただいたのだった。これより、子孫があい続いて河内の国に住んだのであった。


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