宗良親王伝 2
<延元3年>
延元二年の冬、鎮守府将軍北畠顕家や新田徳寿丸(義興)らが数万の軍勢で鎌倉を攻め破り(左馬頭足利義詮は逃亡)、そして三年正月、顕家は宮を奉じて数多くの兵を率いて上洛したのであった。尾張国熱田社へ奉幣の際に大宮司伊勢守昌能が待っていてその兵が加わった。美濃国の住人・堀口美濃守貞満を道案内として黒血川(関ケ原)まで西上したところ、そこに高師泰・桃井直常らが大軍で待ち構えていて防戦する。味方は苦戦して兵も多くは逃げ散ってしまった。宮は伊勢国へお進みになったのだが、安濃の雲津川にまた逆徒どもが待ち受けていて宮を討ち取ってしまおうとひしめきあっていた。しかし味方の軍がこれを打ち破って伊賀路を経て吉野にお入りになったのであった。

その五月、宮は東国に下向なされるとして伊勢国より船で出立なされた。しかし航海中に風が強く吹き船はほうぼうに吹き流されてしまったのであった(陸奥大守義良親王の御船は伊勢国篠島というところへ吹き戻されたので、大守は吉野へお帰りになった。そしてすぐに帝位をお践みになったのである。後村上天皇がこの方である)。北畠親房卿の船は常陸国内海浦に流れ着いた。一品宮と西応寺宮の船は遠江国白羽の湊に漂着して匹馬の宿場より井伊谷へお移りになろうとしたのだが、今川の手の者が行く手をふさいで散々に矢を射かけてくる。

そこへ相模の左馬頭北条時行(北条高時の子)が駆けつけてきて敵を四方に追い散らして井伊の城へお入れしたのであった。井伊高顕・天野・乾・奥山らが変わらぬ心でお迎えしたが味方の兵力は少なかったので、三河国足助の城(足助重春の居城)へ移りたいと相談なされたが、駿河国に興良親王(宗良親王御子)がかねてよりおられ味方する者も多いとお聞きになったので、かの国へお下りになった。狩野介貞家をはじめ入江・蒲原・富士・宇津峯の兵たちも敬いお仕えしたので、しばらくは安心なさったのであった。


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