宗良親王伝 5
<興国5年>
五年三月、佐竹・結城・相馬が小田城に攻めてきた。顕時・具信をはじめ小田治久以下の者が防戦した。大将・結城直朝や佐竹の一族が多く討死にした。このようなありさまなので、鎌倉より高三河守(師冬である)が発向し、方穂〔徳〕庄に着き、二村山に陣を置いた。味方はさせじと戦ったので、賊軍は千余人討たれて師冬は退却していった。

七月、武蔵国の吉見彦次郎頼武が兵を引きつれて味方にきた。また陸奥の白河・結城親朝が日ごろ忠義に励んでいたので、修理大夫に任ずるべき旨の令旨を与えられた。また師冬が軍を進めて攻めてきたが、小田の一族の穴戸・田野らが命を捨てて戦ったので、北郡新城の戦に敗けて駒楯の城へ引き退いた。味方はすぐに追い討ちをかけて師冬の陣所を焼き払った。

しかし、長治が突然心変わりをして小田少将治久とともに師冬に味方し敵となってしまったので、味方の軍勢も動揺し、親房・顕時・具信・秀仲らは宮を奉じて関の城へ入った。その後、宮はひそかに顕時を連れて下妻の城にお移りになった。

十一月、師冬は小田・佐竹を動員して村田の庄に着陣し関城を攻撃した。一手は大宝の城の北守山に押し寄せ、一手は三戸七郎氏鎮を大将として大平・高橋など数百騎を率いて関城の南・長峯に着陣した。そこで顕時・具信が軍を進めて打出合戦が起こった。信濃・遠江の兵どもが味方に参じてすぐに賊徒を追い払った。村田の庄の四条駿河守とその子・因幡守は、敵に邪魔されて散り散りになってしまった。


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