宗良親王伝 8
<正平7年>
七年、新田左兵衛督義興・武蔵守義宗・左衛門佐義治・大江田式部〔民部〕大輔氏経らと相談し、義兵を起こし大軍を率いて宮を奉じて武蔵国に打って出て足利尊氏と方々で戦い、一戦のうちに味方が打ち勝ってすぐに鎌倉をも攻め落として基氏を追い出し味方が替って入ったのだった。義宗は、尊氏を討たなければならないと宮を大将軍に奉じて信濃国碓氷峠で大いに戦ったのだが、幾万の敵がたむろしていて味方は多く討たれてしまった。そのまま味方の軍は危うくなったので、義宗が処置して宮を世良田修理進親季らに託して士卒をつけて信州諏訪へお送りし、自分は越後国へ逃れて時節をうかがったのだった。

宮の御子・興良親王は、その頃遠江国秋葉山に潜伏なさっていたが、今川がたびたび親王を弑そうとして討ち取れと攻めてきたので、秋葉城主天野周防守景顕は味方する者も少なく力尽きて親王のお命を助けたい一心でいったん降伏して親王を捕虜のようにして自らお供して都に上り、二条大納言為定の館に護送した。そうして親王は無事でいらっしゃった。


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