尹良親王伝 4
<応永10年>
十年四月、お味方がひとかたの大将とも頼みに思っていた新田相模守義隆〔澄〕(義治の息子、義則とも)が富士の戦いに敗れたあと相模国山中木賀彦六入道秀澄の領地に隠れて時期をうかがっていたが、秀澄はいつの間にか心変わりして鎌倉にかくかくしかじかと密告してしまったので、関東管領より安藤隼人佐重基を討手に向かわせた。秀澄は義隆を欺いて底倉の温泉に入れあっけなく殺害してしまった。

そしてすぐに上野国の宮方の残党をも攻めようということで、安藤・木賀が多くの軍勢を率いて向かっているということが知らされた。そこで、宮は世良田右京亮有親などに付き添われて急に寺尾をお発ちになって、下野国に妙福院宮がおられたので落合の城にお移りになり、それより信濃国諏訪の千野頼憲の嶋崎城に逃れられた。桃井大膳〔炊〕亮満昌、堀田尾張守正重、大橋修理亮貞元、平野主水正業忠、天野民部少輔景朝など、古くより武功のある者百余騎がお供をして、高崎・安中・碓氷などの敵を討って、ようやく信濃にお入りになったのだった。


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