尹良親王伝 5
<応永31年>
三十一年四月、後亀山太上天皇が山城の嵯峨で崩御になったので、御子小倉宮は伊勢国にひそかにお下りになったそうである。その八月、宮は三河国足助へ移ろうと、諏訪より伊奈路へ出ようとなさったところ、飯田太郎・駒場小二郎・伊奈四郎左衛門らが二百余騎で待ち構えていて、並合の北の山〔小山〕の麓・大河原にて散々に邪魔をして足止めをした。味方も八十余騎が生命を惜しまずに防戦して飯田・伊奈をはじめ十二、三人討ち取った。

しかし大勢の敵に包囲されて、世良田大炊助義秋をはじめ、羽河安芸守景庸・熊谷彌三郎直近ら以下二十五人も討たれてしまったので、宮はどうにも逃れられない運命だと覚悟なさって、御子良王主を信頼できる武士らに託して三河国へ無事に送り届けさせるよう取り計らわれて、火を放ってご自害なさったのだった。ここで殉死した者も多かった。

翌日、聖光寺の僧がご遺体を捜し出して葬ってさしあげたとか。御法号を大龍寺殿と申し上げる。この時、妙福院宮も信濃より美濃へお移りになったのだが、可児の錦織のあたりで捕らわれてしまったそうである(●美濃国可児郡の土地の俗説によると、妙福院宮が美濃国にお逃げになってきたとき、笠木の権現にお参りになった。奥戸のあたりに御所谷と呼ぶ土地があるが、ここは宮の若い時の御座所であったという。今回、今峰又太郎が細目村で戦死し、今峰塚がある。またこの時、敵の駒場次郎が討たれたところとして錦織の川のほとりに駒場石という石がある。今峰の妻は牧野で自害したとして塚がある。又太郎の弟・次郎八は田立で戦死した。塚野の地がそれである。宮は坂本村へ落ちられて、士卒は川を隔てて逃げ散ってしまったところを失淵という。宮は川下へお逃げになり、日月の旗をお沈めになったところだとして籏間の淵という。そこで宮は捕われておしまいになったと云い伝えられる。調べてみると、今峯は土岐頼遠の子・今峯氏光、今峯光正らであり、この末裔である□原・蜂屋・外山・今峯らは土岐の氏族で当時は宮方であった)。


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