信濃宮伝 附録
 
尾州津島四家
  大橋 岡本 山川 恒川
同所七党
  堀田 平野 服部 真野 鈴木 河村 光賀
右のうち、応永より永享まで次々と尾州に移り住んだとか。故右大臣織田信長公の時に敵対したが、後に配下となった。太閤豊臣秀吉公の命に背いて滅ぼされた家も多くあったとか。

津島牛頭天皇の社は、嵯峨天皇の時代に祠を建てたとか。
頼朝卿以来鎌倉より社殿が寄進された(牛頭天皇社、一王子社、八王子社)。
後村上天皇が建徳元年庚戌正月に正一位を授けられて、日本総社と呼ばれた。
後亀山天皇は弘和元年辛酉に社殿を造営された(大橋三河守定省が奉行した)。
弥五郎殿とは、正平元年丙戌七月十三日、堀田弥五郎正泰が姓祖・武内宿禰を祭ったのである(正泰は後に左衛門佐に任じられ従五位下に叙せられた。興国四年正月、河内国四條畷にて戦死した)。
津島祭は永享八年丙辰六月十五日に始まった(四家七党より出し始めたとか)。
津島神主のはじめは尹良親王のご二男・良新であった。良新は男子がなかったので小田井大学助平定常を後継ぎとした。中島郡氷室村を領有したとか(定常は大橋貞元の子である)。

同国一宮四家 (南部本太平記に佐分利賀という者が書かれており、また異本には名分利とある。常の本には佐分利とあり、また異本には名は利氏とある。常本には佐竹加賀とある。)
  関 兼松 佐分 伴野
これもまた宮方の残党であったと言い伝えられる。調べてみると、正平廿二年(北朝貞治六年)二月、関東の宮方である平一揆が葛山と武州河越で戦ったが、同年六月平一揆は攻め落とされて伊勢国へ逃れ来たのであった。その子孫が亀山に住んでいる。関一党がこれである。佐分も平家である。兼松は橘氏楠木一党、伴野は小笠原信濃守長清の三男・伴野兵部少輔時長の末裔であるとか。


← <17> | 目次 | <19> →