南北朝合一
 
その昔、延元元年に後醍醐天皇が吉野にお入りになって、もう一方の皇統をお立てになってから数十年、南北の間に合戦があった。しかし次第に南朝方の勢いが衰えてきて、元中九年になって南北は和親して南帝・後亀山天皇と皇太子・寛成親王は京都にお帰りになって嵯峨野に赴き大覚寺を皇居とされた。神器も同じく京都に渡御した。南帝に尊号を奉って「太上天皇」と申し上げた。このときに初めて南北が一統したのであった。北朝では明徳三年のことである。

しかし南朝に伺候していた人々は、なお吉野に残留して吉野十八郷と十津川郷を支配して北朝には降らなかった。その人々とは、四条三位資行・日野右少弁邦氏・中園左右衛門佐宗頼、武士では越智伊予守通頼・楠木次郎正秀・和田新三郎正高・橋本兵庫助・三輪左衛門尉・宇野掃部介・神宮寺孫三郎・八尾伊賀守・佐和四郎左衛門尉・秋山安房守・恩地伊賀七郎・贄河左近将監・野上右馬助・福塚新判官・山本修理亮・湯浅式部少輔・真木美作守・真木新左衛門尉・坂部十郎などである。

ところが幕府は、これほどの小勢に軍勢を動かして合戦しても仕方がない、そのうちに降ってくるであろうなどと大様に構えて放っておいた。これらの人々も、南帝の皇子・寛成親王が京都で皇太子にお立ちになって皇位に即かれれば、そのときは幕府とも和睦してもよいであろうと、吉野より他へ打って出るようなことはなかったのだった。


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