大和永享の乱 前夜
 
その後、正長元年に北帝・称光天皇が崩御したが後花園天皇が皇位に即いたのだった。寛成親王は皇位を継承できなかったのをお怒りになって、伊勢国司・北畠満雅卿を頼みに思ってひそかに嵯峨の行宮を忍び出て伊勢へ脱出し、宮方ゆかりの者を召集なされた。

このとき吉野・十津川に潜伏していた人々は大いに喜んで、永享元年三月、義兵を挙げて大和・紀伊を制圧しようとした。よって幕府より畠山右衛門佐持国を大将とする七千余騎が河内より進軍してきて合戦となった。旧南朝方の軍勢は微々たる兵力とはいっても士気盛んで大軍を駆け破って、ややもすれば幕府軍が追い立てられて敗けそうなので、さらに京都より一色左京大夫義貫が三千余騎で下向してきて畠山を助けて方々で合戦をする。

そんな状況であったところに、伊勢の合戦では国司方が敗れて満雅・顕雅父子が幕府と和睦し寛成親王もまた京都にお帰りになって嵯峨にお引き籠りになっていたのだった。あれほど勇んでいた人々も力を落として、永享二年の春に評議して、今回だけのことに限るまい、また立つ時もあろうと、それぞれの隠れ家に身を隠した。四条三位資行卿・右少弁邦氏朝臣・三輪左衛門尉は出家して多武峰へ入った。越智伊予守は高取城に留まって、敵が攻めてくれば華やかに一戦して討死にしてやろうと同じ考えの人々480人で立て籠っていた。そのほか、和田・楠木以下の人々はまた十津川の奧に潜伏した。

一色・畠山は、今回はこれまでだ、高取城に少々残っている敵どももすぐに逃げ出すだろうと、越智らを放っておいて京都に帰ったので、越智は思いもよらず運が開けてひそかに兵粮を蓄えあちこちに逃げ散った味方を召集した。


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