□ 大和永享の乱 1 |
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永享七年にもなると、越智の勢力は近隣にふるって旧宮方の人々も集まって二千人に及んだ。このことが京都に聞こえたので、すみやかに討伐すべしと河内守護・畠山持国に命が下る。持国は自分は都にいたままで、遊佐河内守・遊佐兵庫助らを将として五千余騎を派遣した。この軍勢が高取城を包囲して城攻めをすると云っても、要害堅固な上に城兵は身命を惜しまずに防戦するので、攻撃側は死者が数百人に及んだ。幕府軍は攻めあぐんで遠巻きにしていたずらに月日を送っていた。 永享九年の春になっても高取城は持ちこたえていたので、その機に乗じ、出家して多武峰にいた四条資行朝臣・右少弁邦氏朝臣を大将として三輪入道・佐和四郎左衛門・佐和小次郎以下の者が集まって義兵を挙げて多武峰に城を構え、近郷を略奪して高取城にも劣らない勢力となって、幕府軍の陣地へ夜な夜な討ち入って脅やかす。このため遊佐の軍兵は士気喪失して脱走して河内へ逃げ帰るものがあとを絶たず、幕府軍は半減して三千騎足らずになってしまったので、遊佐父子は、このようなことでは戦ができないとして何度も京都へ早馬を送って救援の軍勢を求めた。 そこで幕府より一色左京大夫義貫・土岐刑部大輔持頼を大将として一万余騎を派遣する。土岐・一色は三月三日に高取に着陣し、五日の午前六時に四方より攻め上がってひと息に打ち破ろうと激しく攻撃してきた。しかし越智も武勇第一の者であり福塚・山本以下の屈強の勇士が立て籠っていたので物ともせず、激しく防戦して攻撃側数百人を討ち取ったので、土岐・一色も攻めあぐんで城の虎口より退って向陣を構築して遠巻きに包囲して日を送ったのだった。 |
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