大和永享の乱 2
 
永享十年になったが、いまだに城は堅固で落城の気配も見えない。あまりの事態に驚愕して、管領・畠山持国自らが一万余騎を従えて急行してきた。まず多武峰へ押し寄せて攻撃する。終日続く合戦に入れかわる兵力もなく南軍はついに敗れ、四条三位・三輪入道以下主だった者四十余人はひと足たりとて退かずに討死にしてしまった。そのほかの残兵たちは思い思いに逃げ延びていった。幕府軍は勝利して多武峰の堂塔坊舎に火を放ったので、数多く作られた多武峰の僧房が一瞬にして灰燼に帰する光景は、嘆かわしいと云うどころではなかった。

畠山の軍勢は勢いに乗って、土岐・一色が失敗した高取城を攻めつける。しかし越智はちっとも臆せずに士卒を励まして防戦し、毎日攻撃側の死者・負傷者がおびただしく出るので、畠山も仕方なくまた遠巻きに包囲するようになったのだった。

このようにしてこの年も九月半ばになり、高取城も長期の籠城に兵粮が尽きて首陽山の飢餓にもなろうとする。そこで、この城では運を開くことがかなわなかったがひとまず脱出してまた旗を揚げよう、と廿八日の夜半に大将の越智をはじめ籠城の士卒千余人が三箇所の木戸より忍び出て思い思いに逃げていった。城に残った者どもが火を放ったので、幕府軍はその光に驚きわれ先に攻め上がって騒いでいる間に残った連中も逃げていった。幕府軍は敵兵のいなくなった城へ攻め入って勝鬨をあげて、自慢顔で京都に帰っていった。

しかし京童は口さがなく「笑草のたねをまきたる畠山」などと歌を作って囃したてたので、持国は面目を失ったのか、しばらくは仮病を申し立てて出仕もしなかった。


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