禁闕の変 1
 
その後、嘉吉元年に京都の将軍・義教が赤松満祐のために殺されて、その長男・義勝があとを継いだ。ところが嘉吉三年七月に義勝がまた十歳で早世し、二男の義成がわずか八歳で将軍に補された。天下は薄氷を踏むような危うさであった。

時節到来と喜んで、日野邦氏朝臣・楠木次郎・越智伊予守以下がひそかに上洛し、邦氏朝臣のつてで日野一品有光卿を引きこもうと説得する。有光卿もいかなることかこれに同意して東洞院の自邸へ主だった者を引き入れ、嵯峨におられた寛成親王を夜闇にまぎれて迎え入れて南朝を復興させようとしたのだった。

そうして、まず内裏へ乱入して先年北朝に渡した三種の神器を奪い取ろうと、主だった者三百余人が正面と裏口の二手にわかれて内裏に忍び寄ってきたのだった。九月廿三日のことだったので月もまだ出ず、目を刺そうともわからぬほどの暗さであったが、遮二無二南おもてを打ち破って乱入したのである。

楠木次郎は清涼殿に駆け上がり兵たちを指揮する。裏口の越智は一条大路から局町に乱入してそこかしこに火を放ったが、ちょうど風もなくて燃え広がらなかった。楠木配下の者どもは南殿・昼の御殿・夜の御殿・内侍所にまで討ち入って当たるを幸いに斬り殺していく。帝は夜の御殿にいたが物音に驚いてひそかに逃げ出したところへ、兵がひとり長刀で背後から斬りかかろうとしたが、突然目がくらんでその場に倒れ伏した。その間に帝はすんでのところで免れて裸足で近衛邸に入った。

そこへ東門の警備をしていた佐々木判官が兵士を率いてかけつけてきて南軍と戦闘になった。楠木・越智が、今はこれまでだ、敵が増えないうちに引き上げるべし、と三種の神器を奪って刃向かう敵を駆け破って脱出していくのを、幕府軍は逃すまいと八方より走ってきて討ち取ろうとする。楠木次郎は武勇をふるって敵を駆け破り駆け破り、東洞院の有光卿の館へ逃げ帰った。

そして寛成親王を奉じて比叡山に駆け登った。越智以下の者も徐々に馳せ参じてくる。内侍所の箱(鏡)は湯浅九郎が持っていたが、二条東洞院で膝の関節を射られて足を動かせなくなっていたところに佐々木の郎党・大沢弥六左衛門が行き合って首を奪り内侍所を取り返した。宝剣は楠木の郎党・波多野五郎太郎が持っていたが、味方とはぐれて清水寺のあたりまで逃げていったのを敵三騎が追いかけてきて今にも討たれそうになったので、宝剣を放り出して戦ったが、深手を負って生捕られてしまった。宝剣は清水寺の僧・心月坊が拾って内裏へ返した。神璽は楠木次郎が自ら背負って比叡山に登ったのだった。


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