□ 禁闕の変 2 |
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さて元弘の折の吉例であったので、西塔の釈迦堂へ親王にお入りいただいて比叡山の衆徒たちを頼みに思う旨仰せられたのだが、日本の国内はしばらく幕府に支配されてその威を恐れているのか、はじめより協力していた明願房の阿闍梨・信海と実成院律者・円実のほかに味方する者もなく、挙句に叡山大衆は蜂起して攻めてくるという騒動になった。 こうなっては仕方がない、親王を吉野の方へお連れ申し上げよう、などと相談していたところへ土岐持頼・佐々木判官以下の数千騎が西坂より二手にわかれて攻め上ってきた。越智・楠木はこれを見て、もはやこれまで、おのおの太刀の金が続くまで戦って腹を切ろうぞ、と打って出る。叡山衆徒たちも各谷より蹶起して千人ばかり押し寄せてくる。越智伊予守・神宮寺孫太郎以下百余人は衆徒たちに立ち向かう。楠木次郎・橋本・宇野以下二百余人は西坂より攻め寄せた敵と戦った。 攻撃側は大勢ゆえに無理押しに攻め上ってくる。宮方は小勢であるが生命を惜しまず今日を限りと戦う。戦闘も数時間に及び、神宮寺孫太郎をはじめことごとく討死にしてわずか七、八騎に討ち減らされてしまった。越智伊予守はなおも獅子奮迅、大和鍛治の鍛えた三尺八寸の太刀をとって、先頭に立っていた悪僧九人ばかりを右に左に打ち倒したので、衆徒どもは大勢であったが越智の手並みを恐れて近づくことができなかった。ただ矢じりを揃えて遠くから矢を射かけるのみであった。越智も今は戦い疲れて、もはやこれまで、と釈迦堂へ走り帰って、親王の御前に参上して、 「何とか勝利をと思っておりましたが、もはや味方は残らず討死にしてしまいましたのでどうしようもありません。上様にもご自害なさっていただかねばなりません。この伊予守がお先に参ります」 と云うが早いか鎧をとって投げ捨て腰の刀を抜いて腹を一文字にかき切ってうつ伏せに倒れて死んでしまった。 そして宮も、雪のように白い肌をあらわにして刀を腹に突き立てて倒れられたので、右少弁邦氏朝臣をはじめ御前にいた人々12人は、その場で自害して倒れ伏した。 一方、楠木次郎はなおも敵を防いでいたが、一人走り寄ってきて 「宮は早やご自害遊ばされましたぞ、誰のために戦っておられるのか」 などと呼びかけてきたので、楠木も釈迦堂にかけつけて皆と同じく腹を切ろうとしたのであるが、ふと思い返して宮のおそばにあった神璽を手にとって鎧の上に背負い、橋本兵庫助とたった二人でさらに上の峰へ分け入って夜になるまで潜伏し、その夜、ひそかに下山してまた都へまぎれこんだのだった。 土岐・佐々木は宮をはじめ越智・神宮寺・宇野以下の首をとって京都に帰ってきた。重要人物であった日野一品有光卿と子息・右大弁資親卿は、昨夜、宮と一緒に叡山にいようと屋敷を出たのだが遅れてしまって糺河原で細川の手の者にとらえられ、今日殺害されていたのだった。 |
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