後南朝の終焉
 
その後は幕府軍も攻めてこず山中も静かになったので、皇居を吉野へ遷すのがよいだろう、と評議があり、長禄二年二月、新帝は吉野へお遷りになった。しかし同年七月五日の夜、おととしより仕えていた真島七郎・石見太郎左衛門・中村弾正と云う者どもが謀反を企てて隙をうかがって寝殿に忍びこんで、恐れ多くも新帝を殺害しそばに置いていた神璽の御箱を奪い取って逃げたのである。その夜の宿直であった真木弥三郎・新吉右馬介・高安左近蔵人らが追いかけて、中村弾正・石見太郎左衛門の二人は討ち取ったのだが、神璽を持っていた真島七郎を討ち漏らしてしまった。ここに至って南朝の皇統は絶えてしまい、みな闇夜に灯火を失ったような心地で呆然として途方に暮れていた。

こうしてするべきことがなくなった人々は、思い思いに散っていった。和田・楠木・越智は伊勢へ赴いて北畠殿を頼って隠れ住んだ。そのほか、九州へ赴く人もあり、四国へ渡る人もあり、つてを求めて京都へ出る人もあった。移り変わる世のありさまはたとえようもなく、うつろいやすい世の中はなんと無常なことであろう。延元年中に後醍醐天皇が吉野へお入りになってよりこの年まで百二十三年、南朝の皇統は絶えてしまったのだった。


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