応永五年(戊寅)
 
春正月五日
義持が正三位に叙せられた。

正月十三日
崇光院が崩御した(六十五歳)。


北野で万部経が始められた。

二月九日
二条師嗣が関白となった(再任)。

三月
師嗣の息子・道忠が義満より諱字を賜って満基と改名した。

三月九日
東大寺で塔事始があった。

夏四月廿七日
東大寺の塔の柱が立てられた。

五月八日
畠山基国(法名・得元)が管領となった。

この年
義満は朝廷の五摂家七清華に准じて武家の三職七頭を定めた。いわゆる三職は斯波・細川・畠山で三管領(執事別当である)と号する。七頭とは山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢らで、そのうち山名・一色・赤松・京極を京都奉行(侍所別当)とし四職と号す。奏者は伊勢貞行である。また武田・小笠原の両人を弓馬礼式奉行とし、吉良・今川・渋川らを武頭とした。

秋八月
朝鮮使・朴敦が来た。

冬十一月四日
鎌倉の左兵衛督従三位氏満が死んだ(四十二歳、永安寺と号す)。息子の満兼があとに立って左馬頭に任じられた(廿一歳、初め氏兼と名乗っていたが義満より一字を賜り満兼と改めた)。


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