応永六年(己卯)
 
春三月十一日
興福寺金堂で供養会、職衆三百人であった。

夏四月十九日
一条経嗣が関白となった(再任)。

秋七月七日
満兼が謀叛したという風聞があるが事実ではない。

九月
客星が南の空に現れた。

九月十五日
相国寺の七重塔の供養があった。高さ三百六十尺。

冬十月十三日
大内義弘が和泉堺に着いた。平井新左衛門に案内させる。

十月廿一日
満兼が武蔵府中に発向した(高安寺に本陣を置く)。また足利庄に進発した。大内義弘は堺にいて野心を抱いているとの噂があったので、伊予法眼(青蓮院坊官)を遣わして召喚したのだが「いろいろあって」などと云って来ようとしない。和泉・紀伊・筑紫・中国の兵が堺城に充満し、旧南朝軍の楠木正秀が百騎を率いて大内に加勢し、さらに菊池兼朝が同じく味方するために摂津に到着し、土岐詮直・池田秋政・山名満氏(氏清二男)も一味となっている。義満は絶海中津を派遣して大内をなだめたが大内は従わない。

十一月八日
義満は軍を率いて東寺に入った。

十一月十四日
本陣を八幡に進めた。畠山基国・斯波義将・細川頼元・山名右衛門佐入道兄弟・京極治部少輔・赤松上総介・吉良・石塔・武田・小笠原・富樫・河野・伊勢国司の軍勢三万騎が和泉に発向した。義弘は城を構え矢倉井楼を築いてこの軍勢を防ごうとしている。

十一月廿九日
幕府軍は堺城の攻撃を開始した。午前六時より夜中まで力戦したが、両軍とも力尽きて退却した。北畠満泰が討死した。大内に味方している土岐詮直・池田秋政らが尾張より美濃へ侵攻してきたので、土岐頼益にこれを攻撃させ、詮直は敗れて長森城に立て籠った。

十二月七日
矢田庄合戦、富永資良・資貞と山名が交戦して富永佃二郎左衛門が討たれた。
また山名満氏・藤野源左衛門・高田らが丹波国八田庄を発向して佐々木・小原と合戦し、小原以下宮上野守・今川奈古屋三郎(川端と号す)・勝間田遠江守らが満氏によって戦死させられた。
また京極秀満が同じく美濃より発向したが、三井寺衆徒がこれを防いだので敗れて行方知れずになった。

十二月廿四日
四方より火をつけて堺城に攻め入る。義弘は力戦して長刀をふるって基国の陣に攻めこんできたが畠山満家と挟み撃ちにしてついに義弘は討死し、大内の郎党の森民部丞・杉備中守も戦死し満家がそれらの首級を得た。義弘の子息・持盛は降参し、楠木正秀は敗走した。夜明け頃になって矢倉井楼に燃えていた火が燃え移って堺の町はひとつも残らずに焼けてしまった。菊池兼朝は敗北して九州に逃げた。
この戦で畠山基国は河内・紀伊を領有し、細川頼元は摂津・和泉を賜ったのだった。


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