応永二十二年(乙未)
 

伊勢国司が兵を発し、まず木造俊泰が京都に属していたのでその居城・坂内城を攻め取った。この時俊泰は京都油小路の屋敷にいた。満雅は木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・玉丸などの諸城に兵を入れて守らせていた。弟の木造雅俊は木造城を、大河内顕雅は大河内城を、国司は阿射賀城を守っているとか。また北伊勢の関・神戸・峰・国府・鹿伏兎らは拝野城を守っているとか云う。義持は土岐持益を大将として木造俊泰・世保康政・仁木満長・長野・雲林院らに伊勢を征討させ、土岐持益は拝野城を攻め落とし、また木造城を攻め落とした。木造雅俊は木造城を去って坂内城に入り、木造俊泰が木造城に戻ってこれを守った。

夏四月
諸軍は伊勢国司を攻撃し阿射賀城を囲んだが、城が堅固で落ちない(国司はまず垂水・鳥尾・鳥方穂・朴木らを岩田川及び雲出川に陣取らせて防戦し、垂水・藤方・今徳・榊原・八田・天花寺・曾原・船江・波瀬・岩内・大定・玉丸らは城を守って幕軍に備えていた。また阿射賀城は高山にあって登りにくく、城側は時々出ては不意に夜討をかけたりする。北には天花寺城があり、東には二つの出城があり、南には地獄谷があって数多く兵が死んだ。持益は四方より水の手を断ち渇水させようと計ったが、城はすでに水に乏しかったので国司は策を立てて、馬を櫓の前に立たせてひしゃくで白米を汲んで馬を洗っているように見せかけたところ、これに騙されて攻城軍は嫌気が差して断水を止めてしまった。この後、この城の名を俗に「白米城」と呼ぶようになったのである)。

四月五日
関東管領・上杉氏憲が評定の場において家人(常陸住人・越幡六郎)の扶持をめぐって持氏の命に背いた。

四月廿六日
氏憲の出仕を停止させ上杉憲基を管領にしたので、氏憲入道(法名は禅秀)はこれを恨んで一族郎党を動員して、いま京都周辺で旧南朝軍が蹶起しているのを喜んで謀叛を起こしたとか。

夏六月十三日
日吉大社の神輿が京都に入ってきた。
冬のように寒く、大風雨。

七月中旬
関東の兵が鎌倉に集まった。

七月廿日
みな下向する旨、持氏が命令を下した。

秋八月
義持は南都に参詣したが、これは旧南朝軍と和睦して宥めるためであった。

九月
義持は京都に帰った(南朝皇太子の次の即位を約束して宥めたので、水軍は陣を解いた)。

冬十一月廿九日
大嘗会。


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