応永二十三年(丙申)
 
春正月九日
夜、北山の大塔に落雷があって出火。

正月
伊豆三島の地に突然蓮の葉が発生した。先例によると戦乱の兆しである。

六月一日
仙洞御所が炎上した。

七月中旬以後
関八州の兵が鎌倉に集まり、群れをなした。

八月二日
伊豆大島で火山が噴火した。その音は雷のようだった。

九月
義持は春日大社に参詣した。

冬十月晦日
義嗣が謀叛を企てたことにより龍(林?)光院に押しこめられた。この日に出家、法名を道縄と云う(義嗣は将軍の弟である。父の義満が義嗣を深く愛し、義持を廃して家督に立てようと考えていた。当時の管領・斯波義将が義満に「まず兄の義持公を将軍になさってください」と諫言していたが、義満はのちに義持を隠居させて義嗣を立てようと思っていた。不幸にして義満が早くに死んでしまったので義嗣は望みを失って、関東動乱のときに足利満隆・上杉氏憲にひそかに通じて謀叛を起こし、幕府を顛覆しようとしたのであるがすでに発覚したとか)。

十二月二日
夜午後八時、足利満隆(新御堂殿と云い持氏の伯父である)・足利持仲(持氏の弟)・犬懸上杉禅秀の一族が謀叛し、西御門保寿院で旗を挙げた。

十二月三日
午後六時、持氏は堂辻に敵兵が充満しているので岩殿上山を回って佐介館(上杉憲基の宿所)に避難した。

十二月六日
由比ガ浜で合戦、持氏方の大将・上杉氏定が敗れたので、その夜持氏は駿河に逃走し、小田原で持氏に従軍していた者はことごとく討死、箱根山で夜を明かした。

十二月七日
持氏は箱根に着き、その日の夜に三島に逃げ、ひそかに箱根の別当を呼び寄せたり大森に行ったりまた瀬名に逃げたりして、今川範忠に助けを求めた。

十二月八日
扇谷上杉氏定が藤沢道場で自害した(四十二歳)。持氏の味方は大将の持氏の行方が知れずあるいは伊豆国名越の国清寺にいると云うのでここを目指して集まってきたのだが、狩野介が禅秀の一味で、狩野一族と走湯山の衆徒らが国清寺を攻めてきた。持氏一族の木戸将監某が大将となってこれを防いだのだがその日のうちに落城し、ここで自害した。また持仲が大将となり、上杉憲方(禅秀の息子)と武蔵制圧に出陣した。

十二月十八日・廿二日
二回にわたる合戦があったが、すべて満隆方が敗けて鎌倉に帰還した。

十二月廿一日
南一揆・江戸・豊島・二階堂下総守らが持氏方となって持仲らと合戦した。

十二月廿五日
持仲・憲方が敗れて鎌倉に帰ってきた。また禅秀の聟・岩松持国(新田と称した)が上野国で一揆を催して蜂起した。


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