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□ 応永二十四年(丁酉) |
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春正月一日 満隆・持仲・禅秀は鎌倉を発って武蔵国にいたった。 正月五日 世谷原で合戦、持仲らが勝ち南一揆・江戸・豊島らが負けた。 正月九日 また合戦、諸人はみな持仲・満隆より離反し(禅秀の聟・岩松持国も諸人より離反されたとか)禅秀らは敗れて鎌倉に帰った。また持氏は今川勢や大森らに軍勢催促して鎌倉を攻めた。 正月十日 雪下御坊において満隆・持仲・禅秀・憲方・憲春・司快尊・長尾兵庫助らが自害した。 正月十七日 持氏が鎌倉の浄智寺に入った。 二月六日 武田信満が甲斐国の木賊山で自害した。 三月廿四日 持氏は梶原美作守の宿所に入った。 四月廿八日 持氏が鎌倉御所に帰還した。 上杉憲基が辞職して伊豆三島に下向した。 岩松満純が禅秀の残党を集めて進軍し、舞木宮内丞と合戦に及んだ。 五月廿九日 満純は生捕られて鎌倉へ連行された。 閏五月十三日 岩松満純が瀧口で処刑された(出家して法名を天用)。この宗純は敗北後行方不明になった(のちに新田岩松三河守宗純と名乗った)。 閏五月廿四日 憲基が帰参した。 六月晦日 憲基が関東管領に再任された(京都の指示による)。 十二月朔日 足利義量が元服した(十一歳)。正五位下に叙せられ左中将に任じられ禁色。 十二月十三日 義量が昇殿を許される。 |
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