応永二十五年(戊戌)
 
春正月廿四日
義嗣がついに自害した(廿五歳、圓修院、また林光院と号す。のちに従一位を贈る)。

夏五月十日
小河殿が死んだ(権大納言足利満詮、五十七歳、養徳院と号し法名勝山、左大臣従一位を贈る)。その子息の大僧正・義運は延文四年の尊氏贈官のときの歌を思い出して、
 位山アトハムカシニカヘレトモ帰ラヌ道ハ今モカナシキ
関東で上総本一揆が禅秀一味に与して持氏に背いて蜂起した。

五月廿八日
持氏は一色左近将監を大将として発向を命じ、一揆勢はことごとく敗走した。

冬十一月十七日
一条経嗣が死んだ(成恩寺殿)。

十二月二日
九条満教が関白となった(九条経教の息子、後三縁院と号す)。


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