□ 応永三十五年/正長元年(戊申) |
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春正月 義持が重病になって治療は困難となり、家督相続の評定があった(ある者は兄弟のうち僧となっている者を還俗させて家督としようと云い、ある者は鎌倉の持氏こそが器量に最も優れ適任であると云ったとか)。畠山満家が石清水八幡宮に詣でて鬮によって家督を立てようとし、青蓮院殿(義円大僧正、将軍の同母弟)がその鬮に当たったとか。 同十八日 ついに義持が死んだ(四十三歳)。勝定院と追号し法名を顕山道詮、太政大臣を贈った。 同十九日 義円が青蓮院を出た。 三月十二日 還俗し、左馬頭従五位下に任じられた(三十五歳、義宣と名乗った)。 天下は飢饉であった。 四月廿七日 改元。 五月一日 日野入道一品資教が死んだ(称光天皇の外祖父)。 同廿二日 洪水。 六月朔日 洪水。 七月上旬 称光天皇が差し迫った病状となったが継嗣がない。 嵯峨の小倉宮が逐電された(次の皇位を望んでおられた)。吉田従一位守房などの者が供奉していた。 七月廿日 称光天皇崩御(二十八歳)。継嗣となるべき宮がなくまた後小松上皇にも皇子がなかったので、諸臣が評定した。後小松上皇より勅があって、一休の意見を聴したとか(一休は後小松上皇の落胤であったが、臣下の養子となって僧となり大徳寺に入った。世俗の人とは会わなかったのだが、天皇の後継のことを相談すると和歌を詠んで答えた。『ときは木や木寺か木すえつみすてよ世つくの竹の末は伏見に』後小松上皇はこの歌を聞いて伏見殿の御子で十歳になっていたのを養子として入内させたのだった。小倉宮はこれを恨みに思われて謀叛なされたのである)。 廿八日 新天皇が践祚。二条持基が摂政となった。 三月より 疫病が流行って人民が多く死亡し、死体が諸国に充満した。 斯波義淳が再び管領となった。 十二月 小倉宮(寛成親王)が即位をお望みになってご謀叛、伊勢に脱出され、あるいは軍兵が吉野に立て籠って兵力を募り、伊勢国司北畠満雅はこれに加担した。 |
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