正長二年/永享元年(己酉)
● 後花園天皇 人皇百三代、諱を彦仁、崇光天皇の曾孫、大通院栄仁親王の孫、後崇光貞成親王の御子で後小松上皇の養子である。
春三月九日
灰砂降る。
将軍が元服、加冠は畠山持国である。

同十五日
義宣は参議に任じられ征夷大将軍となり、名乗りを義教と改めた。

同廿九日
従三位に叙せられ権大納言に任じられた。

秋七月十四日
細川右京大夫持元が死んだ。三十三歳、性知院と追号された。

旧南朝方の越知・十市・久世・萬歳などが吉野で蜂起し、紀伊で合戦が起こった。畠山持国がこれを退治した。

伊勢国司満雅が進軍してきたので仁木持長・一色義貫・長野・雲林院・木造中将持康がこれを攻撃した。土岐・世保持頼が大将となって岩田で合戦し、国司満雅は打ち破られて討死、残兵は敗走した。世保は満雅の首を取ってすぐに上洛し、首は実検ののち四塚に梟けられた。小倉宮と満雅の子・顕雅は和睦し、小倉宮は嵯峨にお帰りになってご出家して万寿寺にお入りになった。この寺は南帝系の宗廟と定められた。

人力の及ばないところでみな正に帰したのだった。昔、後深草天皇は次男であったが両流が並び立ってしまいようやくに南帝方の威勢が衰えたのであり、また崇光天皇は長男で後光厳天皇は次男、幸いにも後光厳天皇の系統が天下を治めていたとは云え当今は崇光天皇の子孫で正嫡に帰したということである。これはみな天命であり神明の定めるところであるとか。

九月五日
改元。

冬十二月十三日
義教は従二位に叙せられた。

同廿日
後花園天皇が即位(十一歳)。


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