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□ 永享十年(戊午) |
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春正月三日 星が月に飛び入った。 夏五月 大和全域で一揆が起こり、吉野方の兵があちらこちらに進撃してきた。越智伊予守は高鳥城に籠っていた。義教は一色左京大夫義貫・世保刑部大輔持頼を大将として向かわせ合戦させた。 六月 持氏の嫡男(賢主丸)が元服した。鶴岡八幡宮で元服の儀があったが、憲実は先例の通りに将軍に名の一字を所望するべきであると再三諫言したのだが持氏は諒承せず、ついに鶴岡八幡宮で元服の儀を強行した。足利太郎義久と名乗らせた。また憲実が祝賀のために出仕した時に乗じて討ち取ってしまおうという噂があり、憲実は病気と称して出仕しなかった。 八月十四日 憲実は上野に下向した。 同十五日 夜、持氏は一色時永に命じて憲実討伐のために上野に進発させた。 同十六日 持氏が発向し武蔵府中に到着した。 八月廿三日 藤原雅世卿(飛鳥井権中納言)が新続古今集を奏覧に入れた(第二十一代集である。南朝諸臣の歌は載せられていない。ただし後亀山上皇の御製は四首入選、花山院右大将長親は出家して耕雲明魏と名乗っていたが、和漢に秀でた人であったので六首入選した。作者を明魏法師とあって南朝にあったときの官位を書かないのは、後に北朝に仕えたためである。北畠持康の歌は一首入選、当今にお仕えしているためである)。 同廿八日 京都より幕府軍が発向し、多武峰を焼き高鳥城を攻め落とし、越智伊予守は敗北した。 八月廿八日 義教は左大臣を辞した。持氏調伏のために東山において五檀法が行われた。五大堂が建立された。 九月 義教は上杉持房(中務少輔)に綸旨・御教書を与えて持氏討伐の大将を命じた。後花園天皇より錦旗を頂戴して上杉は出発した(後に山内上杉重実が天子さまの御旗と云ったのはこれのことである。天皇がお詠みになった歌、裨振海中雲之幡之手仁東之塵於拂秋風。)。 九月十日 幕府軍は下向し、箱根山で合戦があった。幕府方の横地・勝間田・熊谷・寺尾らが持氏方の大森伊豆守兄弟・箱根別当に合戦を挑み、ことごとく打ち負かされて寺尾・熊谷は討死した。 同廿七日 幕府軍は足柄峠を越えて早河尻にいたり、持氏は上杉憲直・二階堂・宍戸・海老名らを派遣して幕府軍を迎え撃たせた。しかし持氏方が敗北した。 同十九日 去る四月九日に憲実は白井城を出発したのだが、武蔵分倍河原に到着し、持氏方の兵はみな憲実に従ってしまった。 十月三日 持氏が鎌倉の留守居とした三浦介時高が謀叛を起こし、幕府に味方して三浦に引き上げてしまった。 同十七日 三浦配下の大蔵が犬懸に進軍してきて放火した。 十一月一日 三浦介が鎌倉に進撃してきたので義久は撤退した。しかし簗田・名塚・河津らは残って討死した。 十一月二日 持氏は鎌倉の浄智寺に入った。 同四日 金沢に移り、称名寺(律寺)に入った。 同五日 持氏は出家した(法名道継)。千葉介胤直が警固した。持氏を隠居させて家督に義久を立てたいと思い、憲実がこの旨を京都に伝えたが、義教は聞き入れなかった。 同七日 金沢において、一色直兼父子三人、上杉憲直父子二人が自害し、その配下は多数憲実によって討たれてしまった。 |
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