永享十二年(庚申)
 
正月十三日
一色伊予守が旧持氏勢力となって鎌倉を退去し相模今泉城に立て籠った。長尾出雲守憲景・太田備中守資光を派遣してこれを征伐した。

同廿三日
舞木駿河守持広が殺害された(一色の一味であったため)。

正月
持氏の息子、春王丸・安王丸が日光山を出て結城に入り、結城氏朝父子やそのほか持氏に味方していた武士たちが多数援助して謀叛を起こした。野田右馬助は古河城に籠り、上杉武蔵入道憲信・長尾景仲が征伐した。上野では吉見希慶が蜂起し、大石石見守憲重が征伐した。

二月十三日
禁中で松囃(猿楽百人が出演)。

三月廿八日
義勝の御馬始の儀式があった。

夏四月十六日
八坂塔供養。

同十九日
法観寺供養。

四月十九日
鎌倉より上杉兵庫頭清方・上杉持朝が結城に進発した。

五月一日
幕府軍の大将・持房が鎌倉に下向した。憲実入道に結城討伐を命じ、憲実は伊豆より発向した。

五月十五日
義教は武田信繁の子・信栄に、大和三輪において一色義貫と一色満範の息・修理大夫を攻めさせた。一色一族三百人は自害した(一色は越智討伐のために大和三輪に布陣していた。将軍近習の女房小弁が一色義貫は南帝に味方して幕府を倒そうとしていますなどと讒言した。義教は実否を確かめることもせずに一色を殺害したのである。義貫の怨霊は義教の子息らに祟ることになる)。

同十六日
伊勢守護の土岐世保大膳大夫(刑部少輔)持頼・東池田を細川讃岐守に命じて大和国多武峰で征伐した。世保は自害した。

同廿八日
諸大名の御礼があった。

七月一日
一色伊予守が蜂起し、武蔵の須賀土佐守の城を攻略した。

同三日
上杉憲信・長尾景仲が一色と合戦し、一色は敗北した。また信濃では大井越前守持光が永寿丸(持氏四男)を擁して笛吹峠で挙兵し、上杉重方が征伐した。

七月廿九日
結城城攻撃、西は上野一揆、乾の方角は上杉持朝、坎艮は幕府軍(大将は持房)・宇都宮・土岐・上杉政憲・小田・北条、震巽は越後勢・信濃衆・武田勢、南は岩松三河守(新田)・小山・千葉などが完全に包囲した。

伊勢国司満雅(宝樹院殿)死去後、息男の中将顕雅は大河内城に少将教具は多気城にいた。数代にわたって南帝に忠孝を尽くしていたが南朝の勢力が衰え国司独り幕府に抵抗するのが困難になった。そこへ義教が何度も和睦を呼びかけ懇情を尽くして招こうとしたので、顕雅はついに幕府に帰服した。義教は喜んで世保の伊勢守護を罷免し国司家を守護に任じ南朝の位階も以前のままであった。また世保・長野・関一族以下の豪族も義教に帰服し、義教は伊勢国内の所領関係を定めた(神領はかつては神三郡と諸郡・諸国の神戸・御厨などであったが、元弘建武以来武士が自分のものにしてしまっていたので、今は度会郡山田三保宇治六郷・多気郡斎宮寮・飯野郡相可庄などである。そして神領は国司の管轄となった。これは、幕府と関東府の合戦がいまだ静まらず、そこに旧南朝方の蜂起があればとんでもないことになる、天下がまったくに太平になってから後に国司一族を討伐すればよいとひそかに思い企んでいたためで、まず領地を与えて和親に努めたのである)。

八月十四日
大風が吹いた。

大覚寺門主の大僧正義昭(義満の末子)は義教の兄弟であったが(異母弟)、慈悲深い性格であったので人々はこの人を重んじた。嵯峨大覚寺にあって、南帝(寛成親王)と親しくしていた。南帝が義昭に語られた。「いま義教は強権を振り回して公家も武士もみな困っている。願わくば朕が皇位につきそなたが大将軍になり、義教を討って天下を治めるがよい。畿内は朕の味方である。世保や一色の一族は義教を恨んでいる。また関東は現在戦乱の最中である。もし九州で起てば菊池や大村などが馳せ参ずるであろう。この時こそ天下は半ば覆るのである」義昭僧正はこれを約束し、南帝はご満悦であった。ひそかに勅使を遣わして菊池にこれを命じた。菊池は「結城城は来年中に陥ることはないでしょう。来年の末には天下は必ず覆ります」と云う。これにより南帝はかつて味方であった者どもを召集し、大覚寺義昭は病気と称して髪を蓄えた。義教は義昭が長らく姿を見せないので怪しんで、殺してしまおうとすぐに討手を遣わした。

秋九月
義昭は逐電した(大和と名乗る坊官が一人付き添っていた)。行方がわからず、義教はその姿形を絵にして義昭の行方を諸国に尋ねさせた。討伐した者には大いに恩賞が与えられるとか。

九月十六日
空一面が紅のように赤くなった。

九月十八日
大地震。


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