永享十三年/嘉吉元年(辛酉)
 
春二月十七日
改元。

三月十二日
大覚寺殿(義昭または義有とも)は薩摩にあって民家に入って休息していた(義昭は引稲・唐春・摺春などの農具を見てその名を知らなかったので農民にその名を聞いたところ、農民らは集まって怪しんで「京都からお尋ねのあった人はこの人に違いない。ただの人ではなさそうだぞ」と云う。義昭は菊池への書状を持っておりその中に歌が書いてあった。「花は如何に我をあたしと思らん常に替らぬ今年なりけり」「山陰の花こそ今は開そむれ都は末と思やるへは」山陰の花とは南帝のことを謂うのであろうか。農民らはこの書状を奪い取って開き見て、ますます怪しんで、同十三日、義昭一行を攻撃してきた。義昭と大和法橋はこのときに殺されてしまった。義昭僧正の辞世。「あたなりと思ひし花の齢さへ浦山敷も明日を知る哉」嘉吉元年四月十日に義昭討伐の祝賀の儀があった)。ついに人民が義昭を討った。

同二十三日
義教は伊勢神宮を参拝した。大雨や物怪があった。乗輿に剣を入れておくのだが(鬢切、袋入り)、間違えて別の刀を入れてしまい、草津に到着した時点でこれを見て、驚いて飯尾肥前守に取りに戻らせ、水口でようやく間に合ったのであった。この太刀は義教が常に肌身離さずに持っているもので、それを忘れてくるとは不思議なことである。参宮後、義教は伊勢国内の所領の境界を改めた(これは、義教の参宮は先年行われたのだが、国司がもしや義昭を匿って謀叛を企んでいるのではないかと疑ってのことで、もし匿っていれば自身で国司を討伐してやろうと思っていたとのことである)。

同二十八日
巳の刻、京都に帰る。

九州より義昭の首が京都に上ってきた。義昭は死ぬときに傷を受けたのでその首が義昭のものか見定めることができなかった。義昭の近習であった童子がため息をついて云った。「門主さまのお口の中を知っております。先年奥歯を二本抜かれました。その跡があるはずです」これを聞いて二つの首の口の中を確かめると、はたして歯が抜けた跡があったので義昭のものとわかって葬ったとかいう。

四月十六日
結城城が落城した。氏朝・持朝父子は自害、味方した者は数千人討死し、若君(春王・安王)二人は長尾因幡守の捜索によって捕らえられた。

同十七日
古河城も落城した。

五月四日
結城以下の首が京都に上ってきた。

同十六日
京極・六角の両佐々木が美濃垂井の金蓮寺に出向き、二人の若君は自害した(春王は十五歳、安王は十三歳)。

廿八日
結城落城のお祝いの儀があった。

ここ最近、公家といわず武士といわず処刑されることが多く、首実検が毎年絶えることもなく行われて、みな恐怖していた。薄氷を踏むようだとか深淵に望んでいるようだとか。

六月
義教は赤松満祐の所領、備前・播磨・美作を分けて赤松伊豆守貞村(義教の男色相手で最も寵愛されていた)に与えたく思うようになってきたのだが、いまだ果たせないでいる、とか。

六月廿四日
義教が満祐亭へ行く旨、数日前に仰せがあって満祐は喜んで饗応の準備をしていた(これは、満祐の庭の池に家鴨の子が生まれてこれを賞玩するためだとか)。その日になって、赤松の次男がひそかに満祐に語って曰く、「今日のお成りですが一門は滅亡するでしょう。貞村に領地を与えるおつもりですから」それを聞いて満祐は義教を恨み、渥美・中村・浦上以下三百人をそこかしこに隠して義教を招請した。卯の刻、義教は満祐亭にやって来た。宴たけなわで猿楽が延年の舞いになったとき、満祐は謀略で厩の馬を放った。騒ぐうちに門が閉じられ、伏せていた兵どもがいっせいに攻めかかった。屏風の後ろより渥美が出て義教を殺した(この時四十八歳)。供奉して出席していた者どもは驚いてあわてて同士討ちを始めたり、なすところを知らなかった。京極加賀守入道道統と山名中務大輔熈貴は討死し、斯波武衛義廉・大内持世は塀を越えて逃げ、左衛門督藤原実雅卿は数箇所を負傷しながらも塀を越えて脱出した。満祐らは討手に立ち向かってから切腹しようと待ち構えていたが諸人は驚くばかり、なかなか一決せずに時が経って、満祐父子三百余人は摂津中島の領地に奔り義教の首を宗禅寺に葬った。そして播磨城山城に入った。

同廿九日
義教に太政大臣が贈られ普広院殿と追号された。

七月六日
等持院で形ばかりの葬礼が行われ(死体は六月廿四日に火葬された)。

七月廿八日
大内持世(刑部少輔従四位下、澄清寺と号す)は去る六月廿四日に負傷して以来その傷が治らず、また敵を討てなかったことを残念がっていたが、ついに七月廿八日に死んでしまった(法名を道岩昌弘、息子の教弘が後嗣に立った)。

同八月十九日
義勝が将軍になった(従五位下に叙せられた。童形であったため将軍宣下はいまだ受けていない)。

八月廿六日
台風。
細川讃岐守・赤松伊豆守貞村・武田大膳大夫が大手攻撃軍の大将となり、山名金吾・山名修理大夫・山名相模守教之が搦手攻撃軍の大将となって、播磨に発向した。

九月
満祐の軍勢が追討軍の陣地に逆に攻撃をかけてきて蟹坂で合戦になり、追討軍が敗北した。しかし追討軍は白幡城を攻めようとしていた。細川讃岐守は満祐と親しかったので進んで先鋒となっていたが、他の軍勢を播磨国内に入れようとしなかったので裏切ったのではないかと云われていた。去る八月には赤松追討を奏上して綸旨を賜っていた。山名持豊・教清・教之が搦手より大山口を突破して播磨に乱入し、西福寺上に陣を置いて満祐の城山城を包囲してついに城は陥落した。

同十日
満祐法師は自害し、教祐やその一族は脱出し南朝勢力にやって来たり各地で殺害されたりした(教祐は伊勢において殺された)。

同十七日
満祐の首が獄門に梟けられ、播磨が持豊に美作が教清に備前が教之に与えられた。伊勢国司北畠顕雅が出家し、教具が国司に任じられた(十九歳)。

冬十月
大宰少弐嘉頼が満祐討伐の出兵命令に応じなかったので大内教世がこれを攻めた。小弐は敗れて筑前より肥前に逃走し、教世は小弐の所領を領有した。

十一月
嘉頼は所領を回復しようとして再び挙兵したが、大内教世はこれを撃破して嘉頼は対馬に逃げた。


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