嘉吉三年(癸亥)
 
正月二日
四天王寺太子堂が炎上した。

同三月二日
五穀の占いで凶と出たそうである。

同十七日
近江柿御園蓑庄池脇の新坊十七人が伊勢に参宮したときのこと、外宮から内宮にお参りする途中で天狗に出会い、行方知れずとなった。伊勢は国家の宗廟であり、天下に奇妙な事が起こるということであろう。

夏六月
朝鮮よりの使者が入京、義教の弔問のためである(朝鮮人が兵庫の港に到着した時、管領はかの人々に対して「朝貢などと云いながらその実、商売をしに来たのではあるまいか。大名たちは国の仕事に多額の出費をしており、京都に入れるわけにはいかないのだ」と云った。朝鮮人は「普広院殿の弔問に来たのであって、商売をしに来たのではありません」と云った。そこで入京させることとした。六月十九日には義勝に謁した。馬上五十騎を連ね、道すがら音楽を演奏し笛を吹き鉦を打ち鳴らしていた。)。

廿四日
義教の三回忌が行われ等持寺で御八講があった。

七月廿一日
義勝が早世した(十歳、幼いときより乗馬が上手であったが、今日落馬してそのまま死んでしまった。その辞世、「云さきてこそ人も盛は見るへきにあなうらやましあさかほの花」一色の怨霊が祟ったせいだとか)。

同廿三日
義成が家督に立った。このとき京都では世を危ぶむものが多く人心が落ち着かなかった。

七月廿八日
播磨の浪人らが赤松三郎則重(満祐の甥)を担いで叛乱をおこしたが、山名入道が討伐して殺害した。

また旧南朝の吉野・十津川・河内・紀伊の軍兵が集まって南帝(寛成親王、入道して長慶院と名乗る)を奉じて蹶起し、北朝に仕える日野東洞院一品有親が一味となって、ひそかに上洛した。およそ三百人。

九月廿三日
内裏に二手に分かれて乱入し、一手は楠木二郎正秀が指揮官となって清涼殿に入りこみ、もう一手は大和の越智が指揮官となって局町より攻め入って放火した。兵の一人が後花園天皇に長刀で切りかかって弑害しようとしたが、天罰を蒙ってたちまち倒れ伏し、その間に天皇は脱出してひそかに近衛前関白の屋敷に遷ったのだった。この時、旧南朝勢は三種の神器を奪い取った。内侍所より唐櫃を運び出したが東門の役人・佐々木黒田判官に追いつかれて取り返された。しかし神璽と宝剣は吉野に送ろうとした。ただ宝剣は札をつけて清水寺の御堂に捨て置いて逃げ、清水寺の僧の心月坊がこれを拾って内裏に進上した。旧南朝勢は比叡山の根本中堂に立て籠った。

同廿五日
幕府軍と山門衆徒らは根本中堂を攻め、旧南朝勢では楠木と越智が討死し、南帝(後亀山上皇の第一皇子)はご自害、有光卿は殺害された。

同廿八日
日野参議右大弁資親が処刑された(父の謀反について何も知らなかったとは云え、その罪科は逃れることができない。ただし、遠流と称して九条高倉辺りで侍所の処置で殺されたという)。

去る廿三日夜、伊勢神宮の御馬が御厩を走り出ていずこかを走り回り汗を流しながらまた御厩へ戻ってきた、と禰宜神官がその次第を書状で知らせてきた。それはちょうど旧南朝勢が内裏に侵入した時刻だとか。


← 1442 | 目次 | 1444 →