文安四年(丁卯)
 
春二月七日
義成は正五位下に叙せられ侍従に任じられた。

夏四月二日
南禅寺が炎上した。

五月
富樫次郎教親が叔父安高と加賀守護職を争い(細川は安高を支持し、畠山は教親を支持していた)、加賀を折半した。

五月五日
天龍寺が炎上した。

六月十五日
一条兼良が関白となった(後成恩寺と名乗る)。

同廿二日
台風。

同廿四日
大地震。

秋八月九日
成氏が鎌倉に入り(十三歳、幼名を千寿王丸といい、義成より一字を賜って成氏と名乗った)、上杉憲忠が関東管領となった(幼名を千寿王丸と云った成氏と、幼名を龍若丸と云った憲忠は伊豆にいた。去年上杉家の家臣長尾景仲が成氏を再び関東公方にする段取りをつけて京都に訴えて、成氏を関東公方として鎌倉に迎え、憲忠を関東管領として右京亮に任じさせたのである)。

冬十二月
紀伊において遊佐兵庫助と宇都宮入道が湯浅城を攻め落とし、南朝皇族と楠木二郎らは討ち取られ、首が上洛した。


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