応永四年、宇津野入り
 
応永四年、世良田大炊助政義(弥次郎満義の子)は桃井右京亮宗綱(父は三州額田郡吉良弥三郎有信の子である。母は桃井駿河守義繁の娘である)と相談して、妙法院宗良親王の御子・兵部卿尹良を上野国にお迎えした。

この尹良親王は遠江国飯谷の館でご誕生、御母君は飯谷の井伊介道政の娘である。延元元年、尹良の御父・宗良親王を道政は主君と崇めて遠江国へ迎え旗揚げして京都の将軍に挑み戦った。尹良は大和国吉野におわして元服の後、正二位中納言一品征夷大将軍兵部卿におなりになった。元中三年八月八日、源の姓を受けられた。

そのような方を、新田・小田・世良田・桃井・宇佐美・桐生その他遠江・三河の宮方に味方するものらが相談して桃井和泉守源貞職(貞職は桃井伊豆守貞綱の三男)を遣わして吉野より上野国へお迎えしたのである。

   吉野より付き添ってきた武士
 大橋修理大夫定〔宗〕元     岡本左近将監高家
 山川民部少輔重祐(或いは朝祐) 恒川左京大夫信矩
この四人を新田家の四家という。

   吉野より付き添ってきた公家衆の庶流
 堀田尾張守正重      平野主水正業忠
 服部伊賀守宗〔正〕統   鈴木右〔左〕京亮重政
 真野式〔民〕部少輔道資  光賀大膳亮為長
 河野相模守秀〔孝〕清
この七人を七名字という。先の四人とあわせて吉野の十一党と、宮方の武士の間で呼んでいた。おのおの裏切る心もなく尹良君をお守りした。

飯谷の井伊介道政、秋葉の天野民部少輔遠幹、その他西遠江の兵どもが道中をお守りして駿河国富士谷の宇津野にお移しし、田貫の館にお入りになった。この田貫次郎と云うのは、もとは富士浅間の神主で、神職を嫡子・左京亮に譲って宇津野に隠居していたのだった。その娘は脇屋義助の妾であったので、そのよしみで宮をお引き受けしたのである。

井伊介は親王を宇津野に送り届けて兵どもを残し、自身は国に帰っていった。富士十二郷の者は脇屋義助に深い恩を受けた者どもで、中でも鈴木越後〔前〕守正茂、同右京亮正武、井出弾正少弼正房、下方三郎、宇津野越中守をはじめとして競って尹良をおもてなししたのであった。


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