応永十九年、寺尾落城、底倉の変
 
応永十九年四月二十日、上杉入道憲定は上野国寺尾に出兵して世良田太郎左衛門尉政親を攻めた。政親は数回戦った後に負傷して、もはやどうにもかなうまいと思ったので、長楽寺に入って自害してしまった。法名を俊山という。二郎三郎親氏は力を揮って敵陣を切り抜けて新田に向かった。

応永十九年六月七日、木加彦六左衛門尉入道秀澄が兵二十五騎を農民に化けさせ、新田相模守義則が底倉に潜んでいたところへ夜にまぎれて包囲して鬨の声を揚げさせた。義則は進み出たが、戦い疲れてとうとう討死にしてしまった。


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