応永廿三年、上杉禅秀の乱
 
応永二十三年八月十五日、名月の宴にかこつけて、上杉入道禅秀は鎌倉の新御堂・足利満隆の亭に行って謀叛を勧誘し、廻文で武蔵・上野・下野に陣触れした。新田、世良田、千葉、岩松、小田などの一族や時節を待っていた兵たちがめいめいに挙兵した。

桃井右京亮宗綱は禅秀方に加わって鎌倉を攻め、江戸近江守を国清寺で討ち取った。すぐにその首を武蔵国荏原郡矢口村の川のそばに梟けて高札を立てた。

 今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守奉為新田
 義興主仍如件
  応永廿三年丙申十月十日
             桃井右京亮源宗綱

と書いた。近江守は、義興を矢口の渡しで船の栓を抜いて溺死させた江戸遠江守の息子であった。

応永廿四年正月十日、満隆や持仲といった足利一族や上杉禅秀の一族およそ百七十人が戦い疲れて全員自害した。同五月十三日、岩松治部大輔が武州入間川で中村弥五郎時貞に生捕られて処刑された。桃井宗綱は出家して下野入道宗徹と名乗った。


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