応永三十一年、信濃入り
 
応永三十一年、新田小三郎義一、世良田大炊亮政義、同修理亮親秀〔季〕、同萬徳丸政親(●著者が調べたところ、政親はこれ以前に長楽寺に入って自害している。これは二郎太郎有親のはずである。なおも調べないといけない)、桃井入道宗徹、大江田安房守、羽川安芸守景庸〔康〕、同安房守景国、宇都宮一族、大岡次郎重宗〔家〕、宇津越中守道次、大庭雅楽助景平、熊谷小三〔二〕郎直郷、兒玉庄左衛門尉定政、酒井与四郎忠則、鈴木三郎兵衛政長、天野民部少輔遠幹、同対馬守遠貞、十田弾正忠宗忠(●信好が云うには、この戸田は今の松本侯の祖先のはずだ、弾正左衛門宗光という数世代あとの人がおられたからだ。また藩翰譜の戸田の項には、親元日記を引用して、戸田は以前は十田と書いていたとあった、などと)大草三郎左衛門尉、武田右馬助信長、布施孫三郎重政、千村対馬守家道、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門尉、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉、ならびに四家七党配下の兵たちが尹良に付き従って、宮は上野国をお出になって、同四月〔七月〕七日に信濃国諏訪の千野六郎頼憲の嶋崎城にお入りになった。同国の住人・小笠原七郎政秀、木曽の郎党・千久四郎祐矯、そして高坂・渋谷の一族などが千野の城にやって来て宮をお慰めして旅の疲れを癒してさしあげた。

桐生・宇佐美の両将をはじめ世良田・桃井そのほか十一党の者はさらに相談して、尹良の御子・良王君をひとまず下野国落合の城にお帰しした。四家七名字、桃井貞職、世良田政親、熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山らがお供して、七月十八日落合に帰城なさった。


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