応永三十一年、浪合に散る
 
そして波合で、野武士らが突然蹶起して駒場小治郎・飯田太郎と名乗って襲いかかってきた。桃井下野入道宗徹、世良田次郎義秋、羽川安芸守景庸、同安房守景国、一宮伊予守、酒井七郎貞忠、同六郎貞信、熊谷弥二郎直近、大庭治部大輔景郷、本多武蔵守忠弘以下の者が防戦した。いくら討っても斬っても賊は地理をよく知っていて、あちらに集まったりこちらより駆け出してきたりして水陸を走り畦岸に集まって散々に矢を放ってくる。味方は大難から逃れることができず運気はここに尽きて尹良君をお逃がしすることもできない。

大井田一族は賊に討たれてしまった。下野入道と政満は、小山の麓の家に主君尹良の輿を運び入れさせてご自害をお勧めした。宮は残った人々を呼び寄せて、長年来の忠義は後の世まで忘れるはずはないとおっしゃって健気にもご自害なさったので、入道をはじめとして廿五人も各々自殺して、家に火をかけてすべてが灰になってしまったのは悲しいことであった。政満は御遺言を守ってこの災難の中を逃れて上野国に帰ってきたのであった。

時は応永三十一年八月十五日、信濃国大河原(●信好が云うには、大河原は浪合河原であろう、浪の字が脱落して大に変じたのであろうと)に尹良親王ご自害。宮が腹を斬られたところを地元の人は宮の原と呼んだ。討死にした者の遺骸を埋めてひとつの塚をこしらえて、これを千人塚と名づけた。石塔は信濃国浪合の聖光寺にある。この合戦で討死にした人々の法名は次の通り。

 大龍寺殿一品尹良親王尊儀   後醍醐天皇御孫
  大圓院長誉宗徹大居士     桃井入道宗綱
  智真〔心〕院浄誉義親大居士  羽川安芸守景庸
  依正〔真〕院義伝道伴大居士  世良田義秋 家持の子・満義の兄


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