永享七年、浪合合戦 一
 
永享五年の冬、世良田政義(●著者が調べたところ、政義は政秋となっている。世良田政義は三松伝に元弘三年新田義貞に従って鎌倉に入るとあり、永享七年では百年余も経っている。これは政義ではないことは確実である)、桃井伊豆守貞綱らが、良王君を尾張国海部郡津島にお移し申し上げるのが良いと云うことに四家七名字やその他の兵たちと決定して、同七年十二月朔日に、三河国へ山を越えようと浪合にお着きになった。

そこへ、先年一宮伊予守に討たれた飯田太郎の一族や宗綱に討たれた駒場小治郎の弟その他の親族どもが、宮方は親兄弟の敵なのでここは通すまいぞ、討ち取って孝養にしよう、と大勢はせ集まって包囲しようとしてきた。しかし桃井貞綱、世良田政親、兒玉貞広以下の者は、並合の森の蔭から討ちかかって、賊軍百三十余人ほどを討ち取ったのだった。

同二日午後五時から午後九時ほどまで防戦し、その間に良王を十一党、宇都宮、宇佐美、天野、上田、久世、土屋佐渡守らが付き従って合の山まで退却させた。貞綱、政義、貞広をはじめとして野田彦次郎、加治監物以下廿一騎が討死にした。


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