永享七年、浪合合戦 二
 
同三日、桃井満昌が合の山で子どもたちに問うた。

「お前たちはどこの里の者なのか、昨日の並合の合戦はどうなったか聞いていないか」

子ども七、八人のうちの一人が答えた。

「ぼくたちは並合の近くの村の者です。昨日、並合の町の入口近くの家に武士たちが大勢入って腹を切りました。大将もお切りになったそうだと聞きました」

満昌がさらに

「その腹を切った者どもの死骸はどうしたのだ」

と問うと、子どもは

「武士たちが切腹したあと家に火をかけたのですが、季節柄、風が激しく吹いて並合の町はみな焼けてしまいました。この夜明け頃、何者かは判りませんでしたが、一文字の笠印や一番の笠印、竪木瓜の紋をつけた兵たちが焼け跡を探して焼けた鎧太刀などを拾っているのを見ながらそばを通ってきました。かわいそうでした」

と語った。満昌はこれを聞いて良王君にお告げしたところ、すぐに大橋修理大夫定元を呼んで、満昌につけて平谷より並合に遣わして討死にした者を弔わせた。一文字の笠印は世良田、一番は山川、木瓜は堀田であった。兵たちは満昌と定元に出会って、ともに涙を流した。政義は辞世の和歌をとある家の蔀戸に書き遺していた。定元は討死にした者の死骸を集めて、並合の西に寺があったのでそこの僧に頼んで葬った。

同日の夕方に定元は平谷の陣所に帰ってきた。満昌は野武士どもの首をさらした。良王君は政義の遺していった和歌をお聞きになって涙を流された。その歌に、
  思ひきや 幾瀬の淀を しのき来て 此浪合に しつむへきとは
お供の士卒はひどく恐縮したのだった。


← 【 11 】 | 目次 | 【 13 】 →