永享八年、津島に安住
 
翌年正月二日よりまた兵粮米がなくなったが、今度は日置村より米二十五石を進呈してきた。これをまた家来衆に与えられた。以後、十五家で毎年正月二日に必ず米を搗くのはこれより始まったのだった。津島の年始のめでたいしきたりである。良王君が尾州で亡くなられて後は、宮方の武士も諸国に隠れ住んだ。おおむね左の如し。

桃井大膳亮満昌
 三河吉良の大河内に住む。三河の桃井と云うのはこの末裔である。大河内・坂本の祖。
大庭雅楽助景平
 三河深溝に住む。稲吉の祖。
熊谷小三郎直郷
 三河高力に住む。三河熊谷はこの末裔である。高力の祖。
兒玉庄左衛門定政(定は貞とも)
 三河奥平に住む。奥平の祖。
酒井与四郎忠則(著者が調べたところ、三松伝には広親とある)
 三河鳴瀬に住む。のち、大浜の下宮に隠棲する。成瀬七郎忠房、太郎左衛門忠親(●著者調べ、三松伝に信広とある)は正行寺に居住する。この三人は兄弟である。新田の一族大館の末裔・大館太郎兵衛〔左衛門〕宗氏〔親氏〕の子である。
大岡忠次郎重宗
 三河大草に住む。大江田の末裔である。
鈴木三郎兵衛政長
 三河矢矧に住む(信好が言うには、矢矧は矢並であろうと)。
大草三〔太〕郎左衛門信長
 信濃国小笠原七郎政秀の弟・八郎政信(後に豊後守と称した)の子である。遠江国有国の高林善〔谷〕八郎政頼の弟である。
天野民部少輔遠幹
 遠江国秋葉の城に居住する。天野対馬守遠定〔貞〕の父〔子〕である。遠幹は永享七年十二月、兎を秋葉山で狩猟して富樫の林の介を通じて三河の政親に送った。
布施孫〔弥〕三郎重政
 小笠原の郎党である。信濃より良王に付き従って三河に赴き、野宮に居住する。
宇津十郎忠照
 三河前木に住む。桐山和田の大久保の祖である。もとは駿河国富士郡住人・宇津越中守の二男である。
宇都宮甚四郎忠成
 同国大久保に住む。
熊谷越中守直房
 近江国伊吹山の麓・塩津に住む。雨森の一族となる。近江熊谷はこれである。
土肥助次郎氏平
 土肥三郎左衛門尉友平の子である。尾張国愛知郡北一色に居住する。
長谷川大炊助重行
 越中国名子の貴船山の城主・石黒越中守重行〔行〕の子で、尾張春日郡如意に居住する。
矢田彦七之泰
 堀田の一族で尾張春日郡矢田に住む。

この他にも方々に潜伏した者は多く、そのすべてを記すのは不可能である。

永享七年十二月二日の合戦で討死の法名
  定綱院義功鉄柱居士    桃井定綱
  大光院真〔直〕誉紅月居士 世良田政義
これは良王が津島奴野城におられたころに、先年戦死した武士たちの菩提を弔わせられた時の法名である。


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