尹良親王 ・ 浪合戦薨
 
応永三十一年、新田小三郎義一、世良田大炊助政義、子・萬徳丸政親、桃井宗綱(他に貞職とある)、大江田、宇都宮、大岡、宇津、熊谷、田谷など四家七名字の人々が親王のお供をして上野国を出て、四月七日に信濃諏訪の千野太郎頼憲の嶋崎城にお入りになった(著者が調べたところ、寺尾におられたのはおよそ二十七年である)。小笠原政秀(季)、木曽の郎党・知久四郎祐矯が嶋崎に来てお守りした。

ここで十一党の者どもが相談して、七月十八日、十一党と桃井・世良田政親らがお供して親王の御子・良王親王を嶋崎より下野国落合にお帰しした。八月十日に尹良親王が千野の城をお発ちになる時、『さすらひの身にしありなは住も果んとまり定めぬ憂き旅の空』と自らお書きになって千野伊豆守にお与えになった。そして三河国に赴き吉良の西郷庄右衛門正庸をお頼みになり上野・下野の集めて時機を待つおつもりであった。

杖突峠で賊どもが襲ってきたが、お供の武者らが追い払った。十三日に飯田に着いた(●別本に、桃井、世良田政満(義政の兄、永享に出家)らが尹良親王をお抱えして飯田に着いたとある)。ここで知久祐矯・小笠原政秀の忠功を賞して御剣と錦の御装束をお与えになった。二人はここより帰っていった。

十五日に大野村より風雨が激しくなり、また野武士らが駒場次郎・飯田太郎と名乗りをあげて襲ってきた。宗綱・世良田・羽川景庸・同景国・一宮伊予守・酒井七郎貞忠・同太郎貞信・熊谷三郎直匠・大庭治部少輔景郷・藤原忠弘が防戦して小山の麓の民家に尹良親王の輿を舁き入れて、親王はご自害、従った者ども二十五人も自殺し、家に火を放った。政満はご遺言を聞いて上野国へ逃げ去った。親王は応永三十一年八月十五日大河原にてご自害になり、そこを宮原という。その時戦死した者の遺骸を埋めて一つの塚を築きそれを千人塚という。

 冷湛院〔大龍院殿一品〕尹良尊儀  尹良親王御法名
 依正〔真〕院義伝道律〔伴〕大居士 世良田政義(また義秋、政義の弟ともある)
 大円院長誉宗徹大居士       桃井入道宗綱
 智真院浄誉義視大居士       羽川安芸守景庸

これは大河原で尹良親王のお供をして討死にした大将である。この石塔は信濃並合聖光寺にある。


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